行仏威儀:正法眼蔵を読む

| コメント(0)
正法眼蔵第六は「行仏威儀」について説く。行仏とは、文字通りには仏の道を行ずるという意味であるが、ここではもっと深い意味が込められている。衆生にはそもそも仏性が備わっている、その仏性はしかしそのままには現成しない。それを現成させるには修行が必要である。その修行は、むやみやたらに行えばよいというものではない。作法あるいは礼儀にかなった仕方で行わねばならない。その礼儀になかった仕方、振舞いのことを「威儀(ゐいぎ)」という。したがって、「行仏威儀」とは、仏の道を行ずるについて心得るべき振舞いについて説いたものということができよう。

一巻全体は十の段落からなる。最初の段落で、「行仏威儀」という言葉の定義など総論的なことが説かれ、第二段落以降で、道元が古仏と呼ぶような先師たちの言葉を取り上げながら、行仏威儀についての各論的なことが説かれる。その議論がやや些末に流れるのは、作法とか振舞いといった実践的なことがらが議題になることによる。

まず、冒頭で「行仏威儀」いついての定義が行われる。「諸仏かならず威儀を行足す、これ行仏なり」。諸仏というのは仏性を体現したもの、つまり悟りを得る人という意味である。その諸仏が威儀を行足することが行仏だと定義される。行足とは十分に行ずるということであるから、この一文の意味は、諸仏が仏道の作法を十分に行ずることが行仏だ、ということになる。

そう言ったうえで、行仏と他仏との差異について、次のように説かれる。「行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず。始覚本覚にあらず、性覚無覚にあらず。如是等仏、たえて行仏に斉肩することうべからず」。報仏とは過去の因縁によって成仏したこと、化仏は衆生教化のために仏が化身したもの、自性身仏は自分自身のなかにある仏性のこと、他性身仏は他者のなかにある仏性のこと、本覚は衆生に本来備わる仏性のこと、始覚はその本覚にめざめること、性覚は本覚とほぼ同じような観念である。これらさまざまな仏のあり方は、さとりの様態を現わしたものといえるが、それに対して行仏は、さとりを得るために必要な修行というような意味合いなので、それらを同じ平面で比較することはできないと説いているわけであろう。

ついで、「しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。仏向上の道に行履を通達せること、唯行仏のみなり」という語句が来る。諸仏つまり悟りを開いた人が仏道にあるのは当然のことで、それ以上のことは無用である。一方、仏の道にかさねてさらに修行の行いを続けることが行仏なのである。行仏とはだから、さとりを得るために欠かせない実践だということになる。

第二段落以降は、行仏威儀についての心得のようなものが各論的に説かれる。その多くは実践的な教訓のようなものなので、思想的な深さはない。ただいくつか、思想的な深さを思わせる部分がある。生死の問題をめぐる議論などである。第五段落には次のような言葉が冒頭に掲げられる。「しるべし、生死は仏道の行履なり、生死は仏家の調度なり」。行履は日常の行いという意味である。ということは、仏道においては生死をつねに念頭において行動せよということになる。「仏家の調度なり」というのも、そういう意味であろう。

さらに次のようにも言う。「この生死の際にくらからん、たれかなんぢをなんぢといはん。たれかなんぢを了生達死漢といはん」。生死のことについて暗くては、人間とは言われない、まして生死を了達しているとは言われない。

ところで生死は、人間だけの問題ではない。なぜなら、生死は諸仏にとっての問題であるが、その諸仏は人間だけがあずかれることがらではないからである。そこで次のように言われる。「諸仏は唯人間のみに出現すといはんは、仏祖の閫奥にいらざるなり」。「閫奥(こんおう)」は奥義といった意味。

以上を踏まえたうえで、第六の段落では次のように説かれる。「了生達死の大道すでに豁達するに、ふるくよりの道取あり、大聖は生死を心にまかす、生死を身にまかす、生死を道にまかす、生死を生死にまかす」。生死を了達した大聖は、了達したがゆえに生死にとらわれない、ということであろう。

第六段落の後半では「三界唯心」について触れられるが、それは個人の心を舞台として、普遍的な原理としての仏性が個人的な生き方の原理としての仏性と不可分に結びついているということを説いたものである。個人が個人として存在するからこそ、その個人の心を舞台として仏性が現成するという説である。それを次のような言葉で言いあらわしている。「この巴鼻あり、この眼睛あるは、法の行仏のとき、法の行仏をゆるすなり」。






コメントする

アーカイブ