ルーマニア映画「汚れなき祈り」:ギリシャ正教の修道院生活

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クリスティアン・ムンジウによる2012年のルーマニア映画「汚れなき祈り」は、女子修道院での生活ぶりを描いた作品。時代背景は明示されていないが、現代のルーマニア社会を描いていることはわかる。その現代のルーマニアで、きわめて因習的な制度である修道院が、昔ながらの姿で保守されており、理屈よりも信仰がすべてを律するといった事態がいまだにまかり通っていることに、この映画は批判的な目を向けているというふうに伝わってくる作品である。

孤児院でともに育ったという二人の若い女性が主人公である。孤児院を出た後、一人は地元の修道院に引き取られ、一人はドイツに出稼ぎにいく。ドイツにいっていた女性(アリーナ)が、孤独に耐えられず、もう一人の女性(ヴォイキツァ)を求めて修道院にやってくる。アリーナはヴォイキツァと二人でドイツで暮らしたいのだ。ところがヴォイキツァは、修道院での生活になれ、いまでは信仰に生きている。アリーナのためになりたいとは思うが、そのことで自分の信仰を捨てるわけにはいかないと思っている。そこに決定的な齟齬が生まれる。

ヴォイキツァが自分の思い通りにならないことに、アリーナは煩悶する。それは修道院の神父をはじめ、修道院の連中がヴォイキツァを洗脳しているためだ。そう思い込んだアリーナは、神父を攻撃したり、修道女たちを怖がらせるような真似をする。だが、神父や修道女たちは、そんなアリーナに対して、当初はやさしく接する。罪深いものは助けてやらねばならず、迫害を加えるなどもっての外だと思っているからである。だがアリーナの異常な行動がエスカレートしてくると、さすがに我慢できなくなる。とはいえ、露骨に迫害するわけにはいかない。迫害には理由がいる。

その理由として、アリーナは悪魔に取りつかれており、したがって悪魔祓いをしてやることが必要だという理屈が採用される。悪魔祓いの結果、彼女が正常に戻ればよし、もし戻らねば、悪魔に取りつかれた女を置いておくわけにはいかないから、追い出せる理由になるというわけである。

かくして、悪魔祓いと称して、アリーナに拷問まがいの迫害が加えられる。もっとも神父も修道女たちも、自分たちが迫害しているという意識はもっておらず、アリーナのためにしているのだと信じている。それはヴォイキツァも同様である。しかしアリーナへの迫害が度を越してくると、さすがにひどい仕打ちだと思うようになる。アリーナの縛めを解いて、逃げるように勧めるのだ。その言葉にアリーナは、目の覚める思いをするのだが、身体の衰弱は激しく、ついには死んでしまう。その死を不審に思った病院や警察が、神父や修道女たちを傷害の疑いで捜査することになる。映画は、連行される神父や修道女たちを写すところで終わるのである。

こんなわけで、現代のルーマニア社会に存在し続ける宗教的な熱狂を描いた作品である。なお、小生はルーマニア語を知らないのだが、よくきいていると、数の数え方などにラテン語との共通点があることに気づかされる。ルーマニアという国名はローマにちなんだものだ。






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