ボナールの色彩世界

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ピエール・ボナール(Pierre Bonnard 1867-1947)は、後期印象派と現代絵画の中間に位置する画家である。世代的には、ゴーギャンやゴッホより二十年前後若く、マチスとほぼ同年代である。現代絵画は、フォルム重視から色彩重視への転換という風に特徴づけることができるが、マチスもボナールもそういう傾向を推進した。かれらの先輩には、ゴーギャンらがいたわけで、ゴーギャンらの色彩感覚を受け継いで、それを更に発展させたといえるだろう。

マティスはフォーヴィズム運動の中心だったが、ボナールは「ナビ派」とよばれる運動の一員として出発した。フォーヴィズムには一定の共通性が指摘できるが、「ナビ派」にはそうした共通の特徴はほとんどなく、メンバーはそれぞれ自分流儀の作風を追求した。ボナールには、ジャポニズム趣味があって、そのためジャポニストのナビと呼ばれたりした。かれの初期の絵にはジャポニズムの顕著な影響を指摘することができる。

だが、ボナールは、なかなか自分に納得できる作風を確立できなかった。ジャポニズムを脱したあとは、暗い色彩の作品を多くつくるような時期があり、今日確立しているボナールの画風とはほど遠い。今日ボナールらしさといわれる絵を描くようになるのは、1900年代の半ばごろからだ。ボナールが四十歳前後のことである。そうした晩熟なところは、マティスと似ている。マチスが画家としての評判を確立したのも、やはり1900年代中ごろのことである。

ボナールのボナールらしさといわれるものの特徴は、過剰なまでの色彩である。その点では、ゴーギャンの後継者として、マティスと肩を並べるところだ。マティスの色彩の過剰は、フォルムの解体と結びついていたが、ボナールは必ずしもフォルムを軽視したわけではなかった。だが晩年に近づくにつれて、フォルムにこだわらなくなり、氾濫する色彩で画面を埋めるような傾向を強めた。その挙句に、その後の抽象絵画につながっていく傾向を指摘できる。

ボナールの絵には、一人の女性がモデルとして登場する。かれの内妻で、後に正式の妻となるマルトである。「逆光のなかの裸婦」をはじめ、ボナールの有名作品のほとんどで、マルトはモデルをつとめている。ボナールがマルトと一緒に暮らし始めたのは1893年のことで、正式に結婚したのは1925年のことだった。結婚が遅れた理由はわからない。だが結婚が成立する以前に、ボナールは二人の女性と恋愛関係にあり、そのうちの一人ルネはボナールとマルトの結婚直後に自殺しているから、複雑な男女関係があったのだと思われる。

ボナールは、日本人がもっとも好きな西洋画家の一人であり、国立西洋美術館や大原美術館をはじめ、日本各地の美術館がボナールの作品を所蔵している。強烈な色彩のなかに、なんとなくエキゾチックな雰囲気を漂わせているところが、日本人の美的センスに訴えるのであろう。

ここではそんなボナールの主要な作品を取り上げて、鑑賞しながら適宜解説・批評を加えたい。(上の絵は、若いころの自画像)





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