デリダ「エクリチュールと差異」を読む

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「エクリチュールと差異」は、デリダの最初の論文集である。これを出版したのは1967年のことであるが、同年に「声と現象」及び「グラマトロジーについて」も出している。この年はだから、デリダにとっては、哲学者としてのキャリアをフル回転で始めた年ということになる。そのうち、この「エクリチュールと差異」が、もっとも早い時期の論文を集めていることもあって、デリダの思想の萌芽のようなものをうかがわせる。この論文集の中で試論的に取り上げたテーマが、後に豊かな果実を生むというわけである。

十一本の論文からなっており、テーマは多岐にわたるのだが、「エクリチュールと差異」という総題が示す通り、エクリチュールと差異の問題が中心となっている。それらを中心としながら、それとの絡みで、関連しあうさまざまな概念が展開されるという構図になっている。

デリダがエクリチュールと差異という二つの概念にとりわけ大きな注意を払ったのは、この二つの概念が西洋思想の伝統である形而上学の根本思想に大きなかかわりがあると考えたためである。デリダは、後に脱構築の思想家といわれるように、西洋哲学の伝統に挑戦し、それを解体したうえで、その後にどんな思想を再建すべきかについて考え抜いた思想家である。そんなかれにとって、西洋哲学の伝統の背骨を担う形而上学は、脱構築のための格好の標的となった。形而上学はエクリチュールと差異という二つの概念と密接な関係をもっている。だから、この二つの概念を解体してしまえば、形而上学とその上に立脚する西洋思想の伝統もまたたやすく解体されるであろう。そのようにデリダは考えて、まずこの二つの概念の解体に取り掛かったのだと思う。

エクリチュールというのは、とりあえずは、ソシュールの構造言語学から借用した概念だ。ソシュールはそれをパロールとの対立において考察した。この対立関係のうち、パロールのほうが根源的であり、エクリチュールは二次的なものとするのがソシュールの考えである。まず声で語られた言葉(パロール)があり、その言葉を文字で書き記したのがエクリチュールである、というのがソシュールの基本思想である。そのパロールもまた、人間の頭のなかにある思想を言葉として表現したもので、その意味では、思想が外面化したものといえる。いずれのケースの場合にも、まず根源となるものがあり、それを別の形で表現するものがあるという、いわば非対称的な関係を強調するのがソシュールの特徴だった。その考えを形而上学の伝統にあてはめれば、根源的なものとしてのイデアのようなものがあり、そのイデアを様々な形で表現する営みがある、という考えにつながる。デリダにとってエクリチュールとは、そうした形而上学の伝統の根幹をなす概念だと思われたのである。だからデリダによるエクリチュール批判は、壮大な形而上学批判につながるのである。

差異の概念は、同一性との対立関係において語られる。同一性の概念は、形而上学にとって根本的な概念である。それはプラトンのイデアに根源をもっており、西洋哲学の伝統を支えてきた強固な概念である。プラトンのイデアがそうであったように、普遍的でかつ永遠の真理といえるものは、それ自体の同一性のうえに成り立っている。常にかわらず自分自身と同じであること、それが同一性の原理である。変わりやすいもの、同一性を保てず常に変化するものは、普遍的とか永遠とは呼ばれない。それは一時的な現象たるにとどまる。根本的なのは同一性であって、その同一性は、対象的なものばかりでなく、自我にも当てはまる。自我というのは、さまざまな意識の態様を通じて、かわらぬものとして措定された概念なのである。

差異はだから、同一性のバリエーションというかたちで捉えられる。それは原型であるイデアをさまざまに現象させたものだ。あるいは本質存在が個別存在として現象したものが差異の本質ということになる。それをデリダは反復という概念であらわす。反復とは、原型であるイデアが、個別の現象として繰り返し現れることをいう。反復されるたびに現象は異なった表情を呈する。その表情の違いを差異というわけである。

以上から言えることは、エクリチュールとはパロールとの対立の中で、根源的なものとそれから派生した副次的なものとの対立を浮かび上がらせ、また差異の概念は同一性との対立のなかで、これもやはり根源的なものとしての同一性と、それの反復としての差異に注目したものだということである。その二つの対立関係が、形而上学の根本的な土台となっていると指摘したうえで、デリダはその対立関係を相対化する。そのことで、イデアとか自我の同一性といった伝統的な思想に風穴をあけようというのが、デリダの狙いなのだといえる。

以上を踏まえたうえで、個別の論文を検証するとわかりやすい付置を得ることができよう。エクリチュールを主題的に論じたものとしては「フロイトとエクリチュールの舞台」があり、「差異」を主題的に論じたものとして「人文科学の言語表現における構造と記号とゲーム」がある。冒頭の論文「力と意味」は、構造の概念を取り上げたものだが、それはエクリチュールと差異の批判と通底しながら、形而上学批判の武器となるものである。フーコーを論じた「コギトと『狂気の歴史』」は、フーコーのエピステーメーの概念が構造主義の一つの応用例であることを示すものだ。これらの論文を読むと、デリダが基本的には構造主義的なアプローチから西洋の伝統的な思想である形而上学を解体しようとする意欲を強くもっていることがうかびあがってくる。






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