息を吹きいれられたことば:デリダのアルトー論

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「エクリチュールと差異」の第六論文「息を吹きいれられた言葉」は、アントナン・アルトーを論じたもの。アルトーは詩人でありかつ狂人であった。詩人としてのアルトーは、批評家による批評の対象になってきた。また、狂人としてのアルトーは、精神医学者にによって精神病の一範例として扱われてきた。相互にはほとんど何の関わり合いもない。批評家たちはアルトーの作品を問題にし、かれの狂気を取り上げることはない。一方、精神医学者のほうは、かれの狂気の症状に注目し、かれの作品に関心を払うことはない。それでよいのか、アルトーをそんなふうに分解して別々に扱ってもよいのか。アルトーを一人の人間として、トータルな視点から見ることはできないのか。それがこの論文の問題意識である。

この論文の結論めいたものを先取りして言えば、アルトーは、彼自身であることにこだわったということである。かれは自分を詩人とは思っていなかったようだし、まして自分を狂人とは思っていなかった。それはかれの主観の中でのことだが、その主観から距離を置いたデリダの目には、アルトーは自分自身を演じる人間であり、その演じ方が常軌を逸しているようにみえるので、はた目には狂人と思われても仕方がないというふうに映った。

自分自身にこだわるというと、それは自己同一性にこだわるというふうに受けとられがちだが、実はアルトーは、その自己も含めて同一性に異議を唱え、差異にこだわった人間だったとデリダはいう。この論文が「エクリチュールと差異」と題したこの論文集に収録されたのは、この論文が差異をテーマにしているからである。その差異のことをデリダは「差延」と呼んでいる。「差延」とはデリダの造語であって、フランス現代思想のキーワードとなったものだが、何故「差異」ではなく「差延」なのか。こういうと言葉の遊びのように見えてしまうが、実際フランス語の表記でも、「差異」と「差延」の相違は、difference と differance の違いとしてあらわされるので、言葉の遊びと言われても仕方がないところがある。それは別として、「差異」と「差延」の違いは、差異が同一の類概念のなかでの種差のようなものとしてイメージされるのに対して、「差延」のほうは、何ら共通項を持たない者同士の外的な関係ということらしい。

アルトーが同一性に異議を唱えて差異(差延)にこだわるのは、同一性が創造性と真逆な事態を目指すからだ。芸術は、アルトーによれば純粋な創造である。創造はそれ自体が完結したユニークなものであって、別のものとの共通性を持ってはならない。創造のもたらす作品は、絶対的にユニークなものでなければならない。ところが詩にせよ、演劇にせよ、テクストとして書かれたり、台本として固定されたりすると、それをもとにした再現ということしか期待できなくなり、その再現は、同一のテクストをただ模倣するだけだから、そこには創造性はありえない。純粋な創造を目指すアルトーはだから、テクストとなった作品を否定する。作品はそれ自体がエクリチュールであって、エクリチュールは万人にとっての制度の見本のようなものである。見本は本物ではない。本物でないものは、創造性とは縁がない。だから創造性に徹底的にこだわるアルトーとしては、テクストとかエクリチュールといったものに嫌悪を覚えずにはいられないのだ。

アルトーが目指すのは絶対的な意味での創造だから、それは一回限りのことでなければならない。それも差延を内在させたものでなければならない。差延とは、一切の他者との間に同一性を持たないことを超えて、さらに自分自身との同一性ももたない。厳密にいえば、自己自身との同一性がつねに繰り延べられているのである。「差延」の「延」という文字には、そうした「繰り延べ」という意味が込められている。ともあれ、アルトーはそういった一回限りのパフォーマンスこそが創造であると考えたのだ。

そのパフォーマンスも、観客を前提とするかぎり、インフォメーションの要素を含まねばならない。だが、インフォメーションは、他者による自分の盗みを許す。自分が自分を作品として他者の前に提示したその瞬間に、作品は私の手を離れ、万人が近づくとこのできるものに変化する。その変化のプロセスをデリダは「盗み」というのだ。「盗み」を免れるためには、私のパフォーマンスが他者の理解を超えたものでなければならぬ。しかし他者の理解を超えた振舞いをするということは、これは、われわれが生きているこの社会では、狂気と呼ばれるものだ。

こういうわけで、詩人ないし劇的人間としてのデリダと、狂人としてのデリダは、創造性という点でつながっているわけである。デリダは真に創造的な人間たらんとした。その創造性は、同一性の否定と差延によって基礎づけられている。ところでデリダの目論見は、西洋の伝統的な形而上学を解体して脱構築することにあった。その脱構築は、同一性の否定から始まる。同一性を否定して、差異を前面にだす。その差異は厳密には同一性の繰り延べとしての「差延」という形をとるから、デリダによるアルトー論は、「同一性と差異」というテーマの一範例となるべきはずのものといえよう。

なお、この論文は、他者とかその延長としての神の問題とか、代理された死とかいった問題にも言及しているが、本筋はあくまでも、同一性と差異(差延)の対立ということである。その対立は、タイトルの「息を吹きかけられたことば」という表現にも隠されている。本来息と言葉とは対立するものだ。息は生命の根源として言葉に先立つからである。それに言葉を吹きかけたからといって、言葉が息を吹き返すというふうには立論されていない。





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