ウクライナ戦争は世界をどう変えるか:落日贅言

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落日贅言の第二稿は「ウクライナ戦争は世界をどう変えるか」と題して書こうと思う。何と言っても、いま世界で起きていることの中で最もショッキングなものだし、単に大きな戦争というにとどまらず、今後の世界秩序を大きく変える可能性がある。「この戦争によって、世界の秩序は根本的に異なったものへと転換した、その新しい世界秩序の再構成にとって、この戦争は画期的な意義をもった」、と将来の世代からいわれるようになる可能性が大きい。それほどこの戦争は、人類にとって巨大な意義を帯びたものといわざるをえない。

人類が21世紀のとば口に立ったころ、こんな戦争が起きると予感したものは一人もいなかったのではないか。20世紀の末近くになって、いわゆる社会主義陣営が自壊すると、資本主義システムが唯一持続可能なシステムとして捉えられるようになる。すると、世界は、その資本主義システムをすべての国が共有するフラットなものになったと強調されるようになった。その頃中国はまだ後進国扱いされていたので、先進国全体として、グローバルな資本主義が支配する体制が確立されたとする言説にはそれなりの迫力があった。その頃の合言葉グローバリゼーションは、歴史の一齣といった扱いではなく、世界進化の必然的な傾向として、受け入れられたと言ってよい。日系の学者フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」は、そのような雰囲気を代表するような本であった。この本は、いまや資本主義のグローバルな展開によって、世界は一つに結びつき、ある意味、究極的な段階に達した、とする考えに基づいている。かつてマルクスが共産主義を人類発展の最終段階とみたように、フクヤマもグローバルな資本主義を人類発展の最高段階と見、したがって「人類の歴史は終わった」というような見方を提示できたのであった。

ウクライナ戦争は、そうした考えが幻想に過ぎなかったということを知らしめた。この戦争は、基本的にはプーチンという政治家が体現するロシアのナショナリズムが起こしたものである。グローバリゼーションが圧倒的な力をふるう時代に、ナショナリズムが何か根本的な力を振るえるようになるとは、ほとんど誰も考えていなかったので、プーチンがウクライナ戦争を起こしたことには、誰もが驚いたに違いない。しかし、頭を冷やしてよくよく考えれば、ウクライナ戦争は、ある意味、起こるべくして起きたといえなくもない。ということは、戦争の大きな原因となるナショナリズムが、21世紀のグローバリゼーションの時代にあっても消滅しておらず、何かの機会があれば、爆発するだけのエネルギーを秘めていたということだ。

フクヤマをはじめ、グローバリゼーションの威力を過信するものは、とかくナショナリズムの衝動を軽視しがちである。だが、その衝動を見くびってはいけない。プーチンのロシアが、ウクライナに対して戦争を仕掛けたのは、単にウクライナを安全保障上の脅威と見たからというだけではない。ロシアの民族的なアイデンティティが、西側の脅威にさらされて危機に陥っている。そういう危機意識が今回のウクライナ戦争を引き起こす原動力になったのであり、したがって、この戦争はロシアと西側との間での、民族的なアイデンティティをめぐる戦いという様相を帯びている。じっさい、この戦争は、ロシア対ウクライナとの間の戦争というよりは、西側全体とロシアとの戦争といってよい。今のところ、西側はウクライナへの支援というかたちで、間接的な戦争をしているといった段階だが、いつなんどき、西側が直接対ロシア戦争に踏み切る可能性がないとはいえない。もっともそうなっては、人類はあまりにも巨大なリスクに直面し、場合によっては自滅することにもなりかねない。もしそうなったら、今話題の「人新世」という言葉に、奇妙な現実感が伴うようになるだろう。

ナショナリズムを広義にとれば、アメリカをはじめ西側にもそうした傾向は指摘できる。とりわけバイデンのアメリカは、対中国で理不尽といえるような敵意を示しており、その敵意の原動力がナショナリズムの感情だといえなくもない。バイデンの中国敵視は、通常の意味でのナショナリズム感情というより、ある種の人種差別意識の表れである。19世紀の末にアメリカで起きた黄禍論は、アメリカに仕事を求めてやってきた中国人を当面の敵と見たものだったが、今日21世紀におけるバイデンの中国敵視は、そんな生ぬるいものではない。中国というナショナリティの存在そのものを否定しようとするものである。

中国には、伝統的にナショナリズムの考えはないに等しかった。ナショナリズムは、国際社会における自民族の相対性についての意識に立脚しているが、中国には華夷思想というものがあって、そもそも自民族を世界の中心とする見方が根強かった。華夷思想は、国際社会を諸民族の抗争・対立という視点から見ない。中華民族が世界の中心にいて、その周囲を様々な民族が取り囲んでいる。中国と他民族との関係は、中心と周縁との関係に相等しい。そういう考えが強かったので、欧米流のナショナリズムの観念は育たなかったのである。だが、その中国も、欧米による侵略に直面して、ナショナリズムに目覚めざるを得なかった。いまの中国は、欧米を競争相手と位置付ける見方に立っているが、それは伝統的な華夷思想からは出てこないものであり、ナショナリズム感情が育てたものといえる。

ナショナリズムがきっかけになって、ウクライナ戦争から米欧対中国の対立へと議論が横滑りしてしまった。ここでも一度ウクライナ戦争へと議論を戻したい。プーチンのロシアがウクライナへの侵略戦争を始めた時、小生も含めて、世界中のだれもが驚いたのではないか。その原因とか、国際社会へのインパクトについてはいろいろ議論がなされているようだが、もっとも重大に思われるのは、欧米諸国が、この戦争を終わらせる方向で動くのではなく、むしろ戦争を煽りたてるような行動をとったということだ。さすがに、米欧もロシアの核攻撃能力についてそれなりの評価をしており、もし米欧とロシアが全面戦争に突入すれば、地球にとって取返しのつかない惨事を招くだろうというくらいの認識はもっているようだ。だからこそ、自分らが直接ロシア叩きをするのではなく、ウクライナを利用した形の代理戦争でお茶を濁しているのだろう。

はっきりしないのは、米欧側がこの戦争をどこまでやりきるつもりなのかということだ。ウクライナが簡単に負けるのは、プーチンを増長させるだけなので論外なのだろうが、かといって、ウクライナがロシアに勝てるとも思っていないようである。ということは、この戦争をいつまでもだらだらと長引かせることが次善の策だと思っているということだろう。今の時代の戦争は、過去二次にわたる世界大戦のようには戦えない。相手を武力で屈服させるということは考えられない選択だ。ということは、始めた戦争はすっきりした形では終わらないということになる。

いまのところ、米欧諸国つまり西側は、ウクライナ戦争への対応に追われ、対中国では小休止状態にある。だが、本来対中対立こそが米欧の中心課題なので、いずれその対立が激化することが予想される。そうなると、ウクライナでの戦争が膠着し、世界には常に戦争の影が差している一方で、欧米諸国と中国との対立が別の形で強まっていく。その対立は、白色人種国家対黄色人種国家の間の人種対立という性格を強くおびるだろう。

どうやら、近未来の世界は、グローバリゼーションのもとでの予定調和的な秩序を謳歌するのではなく、文化的・人種的な対立が激化する激動の時期に入っていきそうである。





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