大悟:正法眼蔵を読む

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「正法眼蔵」第十は「大悟」の巻。大悟とは、文字通りには「大いなる悟」ということだが、禅語辞典には「悟」と同義だと書いてある。けだしさとりに程度の差はなく、したがって大も小もないから、大悟と悟の間に区別はないということであろう。この巻は、そのさとりとはいかなるものかについて、色々な角度から評釈したものである。

まず、大悟すなわちさとりとはいかなるものか、一般論的な考察から始まる。「仏々の大道、つたはれて綿密なり。祖々の功業、あらはれて平展なり。このゆゑに大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟し、失悟放行す。これ仏祖家常なり」。大道は諸仏の間に伝えられてきたのであり、その仏道の功業は仏祖たちの間に広げられてきた。それゆえ、大悟は現成するのであり、悟りを得ずとも仏道にいたることができるのであり、悟りをかえり見れば悟りを愉しむことができるのであり、悟りがなくとも自由でありうる。それが仏祖の家常、つまり仏道のあり方である。

こういうことで何が言いたいのか。さとりはもともと人間の仏性によって保証されているのであり、時と所を得れば自ずから成就するのだと言いたいようである。さとりの反対、つまり悟っていない状態を、ここでは不悟といい、また、一般的には迷いというが、不悟といい迷いといい、さとりと全く逆のものではない。さとりと迷いとはメダルの表裏のようなものだ。そうした相対的な関係を説くことが、この巻の主な目的のようである。

とはいえ、その前に、さとりにいたるさまざまな道筋について語られる。人間には様々なタイプの人があって、そのタイプの違いによって、さとりの得られ方も違う。それをここでは、「人根に多般あり」という。具体的には、生知、学而知、仏知者、無師知者である。これらの間に価値の上下はなく、ともに「多般の功業を現成するなり」という。みなそれぞれのやり方でさとりの境地に至るのであり、どれが自分にとって相応しいかは、その人の置かれた境遇による。

以上を踏まえたうえで、大悟(さとり)と不悟(迷い)との関係について、三人の仏祖の言葉を手掛かりにして、考察していく。まず、臨済院慧照大師の言葉、「大唐国裏、覓一人不悟者難得」。これは大唐国には一人の不悟者も見つからないという意味だが、だからといって、悟者も見つからないのだという。ということは、悟者と不悟者との関係、いいかえればさとりと迷いとの関係は、絶対的な差別なのではなく、相対的なものなのだと言いたいわけであろう。

ついで、京兆華厳寺宝智大師とある僧とのやりとり。ある僧が「大悟底人却迷時如何」と問うたところ、大師は「破鏡不重照、落花難上樹」と答えた。さとりを得た人が迷うことがあるとして、その時にはどうなるのか、という問いかけに、破鏡は重ねて照らさず、落花は樹に上り難しと答えたのである。割れてしまった鏡はものをうつすことはなく、落ちてしまった花はもとの木にもどることはないというのが文字通りの意味だが、だからといって、さとりと迷いとがまったく無関係になると主張しているわけではないことは、「まことに大悟無端なり、却迷無端なり。大悟を罜礙する迷あらず。大悟三枚を拈来して、小迷半枚をつくるなり」と言っていることからわかる。

三つ目は、京兆米胡和尚が弟子の僧を通じて仰山に言わしめた言葉。和尚は「今時の人、また悟を假るや否や」と問わせたのだが、それに対して仰山は「悟は即ち無きにあらず、第二頭に落つることを爭奈何ん」と答えた。問いは、「今どきの人はさとりをかるやいなや」という意味だが、「さとりをかる」というのは、「さとりのありやう」をさすのだという。さとりのありようとは、どのようにしてさとりを得るのかということをいい、悟りがいかなるものかについては、既知の前提となっている。ということは、人がさとりを得ることは当然のことであって、問題はそれをいかにして得るかということなのだと言いたいわけであろう。

これに対する答えが、前段で悟りはないわけではないと確認したうえで、後段で第二頭に落ちるというような言い方をしている。そこで第二頭という言葉が何を意味するかが問題になる。色々な解釈が可能だと思うが、ここでは、さとりを得た後の状態だと考えたい。すると答えの意味は、さとりというものはつねに実現されるべき可能性をもっているものであり、したがって悟りを得られるかどうか案ずるには及ばない、案ずべきは、もしさとりを得てしまったならば、それをどのように受け止め、さとりにふさわしい行動を取れるのか、そのことをよくよく考えるべきだというようなことになる。道元が言いたいのは、もしさとりを得ても、それに安住してしまうのではなく、さとりの上にさとりを重ねるべきだということであろう。





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