ドストエフスキー「虐げられた人々」を読む

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ドストエフスキーが「虐げられた人々」を雑誌「ヴレーミャ」に連載したのは1861年のことで、「死の家の記録」を発表した翌年のことである。ドストエフスキー四十歳の年のことだ。この小説は、色々な点でドストエフスキーの転機を画すものとなった。まず、大勢の人物を登場させ、それら相互の関係を立体的に描こうする姿勢が見られることだ。ドストエフスキーの初期の作品は、少数の人物に焦点を当て(「貧しき人びと」は二人の人物の往復書簡という形をとっている)、きわめて単純な物語設定だった。「死の家の記録」には大勢の人間が出てくるが、それらは互いに結びあわされることはなく、語り手の目に映ったさまが平面的に描写されているだけだった。ところがこの「虐げられた人々」は、大勢の人物を登場させて、しかもかれら相互の間に何らかの結びつきが設定されている。要するに小説の構造が立体的なのである。その立体的な小説の構造は、その後のドストエフスキーの小説世界の大きな骨組みとなっていくわけで、その意味で彼の小説の転機となったと言えるのである。

次に、登場人物たちのそれぞれにきわめてユニークな性格を付与していることである。この小説には、イフメーネフ老夫妻とその娘ナターシャを片方に据え、その対極にワルコフスキー侯爵という人物を置いている。イフメーネフ老人は善意の象徴のような人間として描かれ、それに対してワルコフスキーのほうは悪の権化のようなものとして描かれている。その上で、善意が踏みにじられ、悪がはびこるという具合になっている。題名にあるとおり、弱い人々が悪いやつによって虐げられるというのが、この小説のテーマなのである。悪が栄え、善が亡びるというのは、別に珍しいテーマ設定ではないが、どうもロシアという国は、そもそも悪が善を滅ぼすようにできている。だからといって、ロシアをあしざまに扱ういわれはない。それはいかにもロシアらしい性格なのであって、人々が一様に幸せに暮らせるような社会は、根本的に非ロシア的なのである、というドストエフスキーの信念のようなものを、この小説に感じることができるのである。

ワルコフスキーとイフメーネフという善悪両対極にはさまれ、両者の間を媒介するような役回りとして、アリョーシャとナターシャの二人が出てくる。アリョーシャはワルコフスキーの息子であり、ナターシャはイフメーネフの娘である。要するに仇同士の子どもたちが結ばれようとしているわけである。ドストエフスキーはおそらく「ロメオとジュリエット」を意識していたのだと思われる。若い男女の恋が、宿敵同士の和解をもたらすというのは、通俗的ではあるが、なかなかインパクトのあるアイデアなのである。シェイクスピアの戯曲では、恋人たちの死がかれらの両親の和解を導くという設定になっていたが、この小説ではそういうことにはならない。若い男女は、自分の意思で相手を捨てるのだし、その結果ワルコフスキーだけが、自分の意思を通すことになるからである。要するにこの小説では、悪は栄え、善は報われないという、いかにもロシア的なシニシズムが貫徹されるのである。

この小説は、イフメーネフとワルコフスキーの対立関係を中心にして展開していくのであるが、それと並行する形で、ネリーという薄幸の少女の物語が展開する。この小説は、ネリーの祖父スミスがペテルブルグの街頭で野垂れ死にするところから始まり、ネリー自身の死によって幕を閉じるので、形式上は、ネリーの存在が小説全体の枠組をなしているようにも受け取れる。だが、小説の本体はあくまでもイフメーネフとワルコフスキーの対立関係にあり、ネリーをめぐる物語は挿話的な扱いである。ただそのネリーがワルコフスキーの実の娘であり、その実の娘が父親を呪いなから死んでいくというところに、ドストエフスキーの意趣を見てとることができる。ロシアでは、正義が実現されることはありえないが、しかし虐げられた人々がその魂まで売り渡すことはない。だから父親を呪いながら死んだネリーは、ロシアの虐げられた民衆を象徴するような役柄を与えられているわけである。

ところでこの小説は、イヴァン・ペトローヴィチ(ワーニャ)という青年による一人称の文体で語られている。この青年は、目下売り出し中の作家ということになっており、ドストエフスキー自身を投影した人物像ではないかと評されたこともあったが、どうやらそれは便宜上のことで、ドストエフスキー自身とは全く関係がないようである。この青年は、孤児であったところイフメーネフ夫妻に引き取られて育てられたことになっているので、イフメーネフのほうに肩入れする書き方になっているのは自然としても、それにしては、書き方が中立的である。一応ワルコフスキーを悪人と考え、イフメーネフを善意の人として語ってはいるが、かならずしもイフメーネフのために全力を尽くすといえるほどのことはしていない。むしろ事態の成り行きに任せるような語り方である。天涯孤独になったネリーを引き取ったのはかれであるが、そのネリーに対してもそんなに気を使っている様子はうかがえない。なにについても中途半端である。小説の雰囲気をあまり主観的なものにさせないための工夫かもしれぬが、それなら他に書きようもあったわけで、いかにもそっけない印象を与える。

この小説が、或る意味ロシア的な深刻さを扱っているにかかわらず、文面からそうした深刻さがあまり強く伝わってこないのは、語り手の中途半端な姿勢にあると思われる。ドストエフスキーは、「死の家の記録」で採用した一人称の文体を引き続き実験的に試みたと思うのだが、それによって、登場人物の描写が甘くなっている。ドストエフスキーの持ち味は、ストーリー展開の妙というより、登場人物の心理描写の見事さにあると思われるので、そうした心理描写を深めるためには、一人称の文体では限界があるのではないか。ドストエフスキー自身としては、この小説で、さまざまな人間たちが織りなす人間模様といったものを立体的に表現しようとしたのだと思うが、一人称の形をとったことで、その意図がだいぶそがれたのではないか。






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