ドストエフスキー「地下室の手記」を読む

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「地下室の手記」は風変わりな人間の手記という体裁をとっている。その点では、「二重人格」と同じである。二重人格は、頭のいかれた人間の手記で、読んでいるほうといえば、とてもまともなふうには受け取れなかった。頭がいかれた人間の言うことなので、前後に脈絡があるわけではなく、しかも精神病院をスペインの王宮と間違えるような、支離滅裂ぶりである。それに比べればこの「地下室の手記」は、たしかに異様ではあるが、理解できないわけではない。この手記の作者のような人物は、そうざらにいるものではなかろうが、しかしそんな人間がいても別に不思議ではないと思わせられる。

「二重人格」の主人公が頭のいかれた人物の手記なのに対して、この「地下室の手記」は、自意識過剰な人間の手記なのである。この人間は、自分が自意識過剰なのは十分に自覚していて、自分がいつも不幸なのは、自意識が過剰なためだと思い込んでいる。なにをやっても、つねにこの自意識が伴うので、かれは普通の人間のように生きることができない。ものごとに熱中することができないのだ。どんな物事に対しても、その物事と自分自身との間に、過剰な意識が介在し、そのためかれは人なみの生き方ができないのである。そんな思いを彼は次のように表現している。「いったい自意識を持った人間が、いくらかでも自分を尊敬できることなど、できることだろうか」(江川卓訳)。

そういうわけでこの手記は、自分自身を徹底的に軽蔑しながら、世界全体を呪い続ける男のぼやきなのである。とはいっても、そんな男が現実に存在するわけではない。この手記全体がフィクションだと、わざわざこの本の冒頭に置かれた序文のような文章の中で宣言されているのだ。そこでは次のように言われている。「この手記の筆者も『手記』そのものも、いうまでもなく、フィクションである。しかしながら、ひろくわが社会の成立に影響した諸事情を考慮に入れるなら、この手記の作者のような人物が我が社会に存在することはひとつも不思議ではないし、むしろ当然なくらいである」。

ここで「わが社会」と言われているのは、無論ロシア社会のことである。日本社会には、こんなタイプの自意識過剰な人間は存在する余地もないし、また、いわゆる西欧の社会にも、この手記の作者に近いタイプの人間はそうざらには存在しないだろう。西欧にも自意識の強い人間はいるであろうが、その自意識がねじ曲がっていて、健全な社会生活を不可能にするほど人間性というか人格というか、要するに一人の人間の生き方を損なっているような例がふつうに見られる社会は、この手記がものされた時代のロシア以外にはありえないと思われるのだ。

そんなわけでこの手記は、一人の特異な人間の自意識を解剖して見せたというにとどまらず、ロシアという特殊な社会を特徴づけている根本的な要素としての、民族的な自意識というべきものをあぶりだして見せているといってよい。これはロシア人の民族としての集合的な自意識の解剖の書といえるのではないか。

だいたいドストエフスキーが、小説を書き始めるにあたって、頭のいかれた人間を好んで主人公にしたということには、深いわけがありそうである。かれが繰返し描いた頭のいかれた人間像というのは、特殊なタイプの人間ではなく、すくなくともロシアにおいては、普遍的ともいえるタイプなのではないか。そういう問題意識がドストエフスキーにあったからこそ、かれは頭のいかれた人間像を繰り返し描いたに違いないのだ。いかれた頭というのは、ドストエフスキーにとって、ロシア人のもっとも顕著な属性なのである。

この手記の作者も、多分に頭のいかれたところはある。かれの場合には、そのいかれた頭で過剰な自意識を囲い込んでいる。かれがなぜ自意識過剰なのか、その理由のようなものについては、読者には示されない。だいたいこの小説は、自意識過剰な人間の手記をそのまま採録したという体裁をとっているので、作者たる男の頭に浮かんだこと以外は、表面化せず、したがって読者は、この男を客観的な視点から見る余裕をもたないのである。作者が読者に向かって言うことは、自分が自意識過剰なために、不当に苦しめられていること、その苦悩を自分の力ではどうすることもできないこと、したがって死んでしまうくらいしか、解決法は見当たらないという諦念なのである。この男は執筆当時四十歳なのであるが、ロシアでは、四十年というのは人間の平均寿命なのであり、自分はその寿命を生き抜いたという自覚がある。だから、やがておとずれる寿命の期限だけが、かれを深刻な苦悩から救い出してくれるというわけである。

手記は当然のことながら、作者の頭に浮かんだことがらをそのまま文章にしたものだ。その作者は自意識の塊のようなものだから、からが語ることがらはすべて、かれの自意識をくぐりぬけてきている。だからどんなことも、それ自体としての意味をもつことはない。すべては、己の自意識にとってどんな意味があるのか、ということを基準にして解釈される。かれが手記で語ることは、かれの自意識が解釈しなおしたものなのである。その自意識はマイナー・コンプレックスの塊のようなものだから、その自意識を刺激するものは、ことごとく彼の劣等感をかきたてたり、逆に妙な優越感を合理化したりする。手記の前半でさんざん自分の劣等感について語った後、作者は数年前の出来事を苦い気持ちで思いだすのだが、その思い出というのが、かれの強烈な劣等感と、それの補償としての優越感からなっているのである。彼の劣等感は、自分より上だと認めざるを得ない人間たちによって強制される。一方かれの妙な優越感は、自分より弱いと感じる人間によって掻き立てられる。かれは、自分より弱いと認められる人間を相手にすると、徹底的に強圧的に振舞い、そのことで、自分の劣等感が補償されることを感じるのだ。

そういうタイプの人間は、ロシア以外にも存在するかもしれないが、ロシアではそういう人間こそが、社会の主流になっている。ロシアという国は、強い立場のものは弱い立場のものを見下し、虫けらのように扱う一方で、弱い立場の人間は、自分の弱い立場に忍従して、強いものの前に虫けらのようにいへりくだるのである。一番都合の悪いことは、その虫けらが自意識をもっていることである。なまじ自意識などというものがあるおかげで、弱い立場のものは、つねに自分についてコンプレックスを感じざるをえない。そんな社会は、精神病院のようなものだ。それが、この作品の作者ドストエフスキーの偽らざる気持ちだったのではないか。






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