アイザック・ドイッチャー「武装せる預言者・トロツキー」を読む

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アイザック・ドイッチャーのトロツキー伝は「トロツキー三部作」と呼ばれ、非常に膨大なものである。三部作の題名は、第一部が「武装せる預言者」、第二部が「武器なき預言者」、第三部が「追放された預言者」とあり、全体としてトロツキーの誕生から死までの全人生をカバーしている。史上、一人の人間を対象にしたこれほど包括的で徹底的な研究は他に例がないといってよい。

この研究を適切に批評するには、全体を読んでいることが前提になると思うが、なにせ膨大な規模なので、全体を読了するにはなかりな時間がかかる。そこでとりあえず、第一部を読んだ印象を語ることとする。

第一部「武装せる預言者・トロツキー」は、トロツキーの生年1879年から1921年までをカバーしている。1921年はロシア共産党第十回大会の行われた年である。ボリシェビキは十月革命を起こした後、白色テロや外国の干渉に直面しながら、戦力を優先させるため、資源の有効配分を理由に強力な戦時共産主義体制を敷いたのだったが、それがかえって国力を疲弊させた。このままでは革命の成果が危機にさらされると予想したボリシェビキは、一時的に共産主義体制を和らげ、市場経済システムの導入をはかった。そのことを通して、経済の地力を回復させ、工業化へ向かうステップを確保したいというのが、ボリシェビキの思惑だった。その政策はレーニンが主導したが、トロツキーもそれに強く反対しなかった。

1921年にトロツキーは42歳になったのだったが、その年が彼の人生の頂点であり、かつ転落の始まりであった。かれがなぜ転落せねばならなかったか、その理由についてこの第一部では立ち入った考察は行っていない。ただトロツキーのやや傲慢な性格が、その一因となったとほのめかしているだけである。そんなわけなので、この巻は、ほとんどがトロツキーの成功体験を追跡する結果となっている。

アイザック・ドイッチャーは、いまでもトロツキー研究の第一人者だと評価されている。かれほどトロツキーという人物を包括的にしかも深く掘り下げて研究したものはいない。そこにはトロツキーに対するドイッチャーの強い思い入れがあったのだと思う。ドイッチャーは、レーニンよりもドイッチャーのほうを、ロシア革命の指導者として重視している。ロシア史の大局的な流れはレーニンの予測どおり動いたといえるが、しかし実際の現場に身を投じて、革命を物理的に動かしたのはトロツキーだったと思っているようだ。1905年の革命は、トロツキーが中心になって起こしたものだし、1917年にもトロツキーは決定的な役割を果たした。この革命に際してトロツキーの果たした役割は、外交の責任者としてブレスト・リトフスク条約の締結を成功させたこと、及び赤軍の創始者として白色テロや外国の干渉に対して戦ったことだ。とくに、赤軍の指導者としての名声は高く、かれはロシア革命の守護者として民衆に受け入れられたほどだった。

この本におけるドイッチャーのトロツキー評価は、理論面よりも行動面を中心にして展開していく。トロツキーといえば、スターリンと比較されながら、スターリンの一国社会主義とは異なった、世界同時革命とか永久革命といった思想を主張した理論家としての側面が注目されるのであるが、この本では、無論理論的な側面にも配慮はなされてはいるものの、主体はトロツキーの実践的な指導者としての側面である。そうしたトロツキーの実践性は、1905年の革命騒ぎの時にまず発揮された。この時、レーニンらのボリシェビキの主流派がみな海外にいたのに対して、トロツキーだけがペテルブルグにいて、その騒ぎに火を注いで拡大させたのであった。そんなわけでドイッチャーは、1905年の革命は、トロツキーの業績だったとさえ思っているようである。

なにがトロツキーに、実践的なエネルギーを注入したのか。それについてドイッチャーは、トロツキーが年少のころから抱いていた、ロシア特有のインテリ気質に原因をみている。ロシアのインテリ気質は、ナロードニキの伝統の上に形成されてきており、きわめて強い実践力と結びついていた。その実践力をトロツキーも年少の頃から身に着け、いざというときになると、民衆を鼓舞する強い能力を彼に与えた。1905年におけるトロツキーの振舞いは、基本的にはアジテーターとしてのものであり、理論指導者としての振舞いではなかった。

大体トロツキーは、レーニンとは異なって、学問を体系的に学んだことはなかった。子ども時代に変則的な教育を受けた後、1896年(19歳)にウクライナ南部ニコラーエフの中等学校に入ったかれは、学業をそちのけにして革命運動に熱中した。もともとナロードニキに心酔していたが、やがてマルクス主義文献を読むようになる。かれのマルクス主義理解は、レーニンとはかなり異なっていたらしい。その相違がかれを、レーニンのボリシェビキではなく、メンシェビキにさせた。かれはレーニンの軍門に下ったあとでも、メンシェビキへの親近感を失わなかった。だいたい十月革命が勃発する直前まで、かれはメンシェビキとして振る舞っていたのである。

そのかれが何故革命の闘志として歴史に名をとどめることになったのか。ドイッチャーは、トロツキーが若いころから権力によって迫害され、そのことで自分を鍛えあげたことにその理由を求めている。ニコラーエフの活動の延長として、かれはシベリアに四年間流されるが、簡単には屈服することはなく、闘争を重ねながら革命の闘志としての経験を積んでいった。1905年にはかれは脱走してペテルブルグまで来ており、そこで民衆の間に革命的な気分の高揚を認めた。かれはその高揚を一層激しく燃え上がらせた。かれの持っている弁舌の能力が民衆の心を湧き立たせたのである。

こんな具合にドイッチャーは、トロツキーの歴史的な意義を、その理論的な能力ではなく、たぐいまれな実践能力に求めている。その実践能力は1917年の革命のときにも発揮された。最初二月に騒ぎが起きた時には、トロツキーは大した役割を果たすことはなかった。しかし革命の機運が高まるにつれて、かれの実践能力が威力を発揮することになる。十月革命に決定的な役割を果たすのは、クロンシュタットの水兵たちであるが、その水兵たちをけしかけて革命のために立ち上がらせたのがトロツキーだった。また白色テロとか外国の介入など、反革命の動きが強まると、それを叩くために能力を発揮したのもトロツキーだった。ロシア革命におけるトロツキーの役割は、赤軍指導者という面に集約されていたと言ってよい。トロツキーは、レーニンのような精緻な理論を展開したというより、身を以て革命を推し進めたというほうが当たっているのである。

なお。トロツキーという名はハンドル・ネームであって、本名はレフ・ブロンシュテインである。両親はウクライナ南部のヤノーフカで農園を営むユダヤ人だった。






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