空華:正法眼蔵を読む

| コメント(0)
正法眼蔵第十四は「空華」の巻。この巻もまた、表題である「空華」という言葉の意味を道元がどうとらえていたかが理解の鍵になる。「空華」という言葉は、普通は、実在しないもののたとえとして使われる。いわば空中に見える蜃気楼のようなものを実在する花と思い込む、そういう事態をあらわした言葉というのである。それに対して道元は異議を唱え、そうした否定的な意味ではなく、肯定的な意味を付与する。その肯定的な意味での空華という言葉を、仏の教えと関連付けるのである。だからこの巻は、ほかの巻とは多少ちがって、さとりの境地についての説ではなく、仏の教えの連続性について説いたものということができる。

仏の教えの連続性ということについては、巻冒頭の次のような言葉からしてうかがわれる。「高祖道、一華開五葉、結果自然成」。これは禅の開祖達磨の言葉で、その直前には「吾本来此土、伝法救迷情」とある。全文の意味は、私がこの地(中国)に本来して、法を伝え迷情を救う、すると一華が五葉を開き、結果が自然と成る、ということだが、要するに、達磨自身の教えが実を結んで、自然と栄えるようになるということだ。つまり、禅の教えが達磨を始祖として各代に伝えられるという教えの連続性を強調した言葉なのである。その言葉から始まるこの巻はしたがって、教えの連続性を説いたものと受け取ることができるわけである。

ではその連続性の主張が、いかにして「空華」という言葉に結びつくのか。その結びつきを確認する前に、道元は「空華」という言葉の通俗的な解釈を退ける。通俗的な解釈は次のように確認される。「しかあるに、如来道の<瞖眼所見は空華>とあるを、伝聞する凡愚おもはくは、<瞖眼>というは、衆生の顛倒のまなこをいふ。病眼すでに顛倒なるゆゑに、浄虚空に空花を見聞するなりと消息す」。「瞖眼」は曇ったまなこ、その曇ったまなこで見るから虚空に花が見えると思う、というような意味である。つまり通俗的な解釈では、「空華」とは曇ったまなこのせいで、実在しないものが実在するとうふうに勘違いすると捉えられているわけである。

そういう捉え方は間違っていると道元はいう。「空華」は、通俗的な解釈がいうような、感覚の錯誤などではなく、それ自体に積極的な意味合いのある言葉だというのである。具体的にはどういうことか。その問いを道元は次のように表現する。「ひとたび空華やみなば、さらにあるべからず、とおもふは、小乗の見解なり。空華みえざらんときは、なににてあるべきぞ?」 空華は、見えなくなったとしてもなくなったわけではない。どこかにあるのだと言いたいようである。つまり空華は、それ自体として常にどこかにはあるのだ。

では、どこにあるのか。それについて道元は断定的な言い方をしてはいない。凡愚は、「能造、所造の四大、あわせて、器世間の諸法、ならびに、本覚、本性、等を空華というとは、ことに、しらざるなり」というふうに、もってまわった言い方をしているだけである。この言葉を素直に解釈すると、空華というのは、西洋流にいえば、事象の可能態ということにもなろうか。可能態あるいは潜性態と現実態あるいは顕勢態との対立は、アリストテレス以来の西洋思想の骨格をなす考え方の一つであるが、それに似た考えは仏教にもある。仏教の中の唯識派と呼ばれる流派が、可能性が実現して現実となるという考えをとくに抱いていた。それを道元も共有していたのではないか。道元には、華厳経を重んじるところがあって、その華厳経が唯識派の教義の基礎となったことを思えば、道元が唯識派の考えに近いものを抱いたとしても不思議ではない。

可能態と現実態との関係を明示したような文章がある。「まさに、しるべし、空は一草なり、この空かならず花さく、百草に華さくがごとし」。まだ花の咲いていない草こそは、花が咲く可能性をもっている、どんな草も、それなりの花を咲かす。そう考えると、花の咲く可能性としての草が、花の空ということになる。それを言い換えれば「空華」である。「空華」というのは、すべての存在をその可能性において支えている基盤なのである。

そこから梅柳についての、文学的な比喩が繰り広げられる。「梅柳の花は梅柳にさき、桃李の花は桃李にさくなり。空華の空にさくも、またまたかくのごとし」というわけである。ここで空華は空に咲く花というふうに説かれているが、その意味は、空華とは感覚の錯誤などではなく、じっさいに空に咲く花のことだという具合に、比喩的な言い方をしていると考えられる。

どんな花も春には咲く。それは咲くように秩序付けられているからだ。そのことを道元は次のようにいう。「春は花をひく、華は春をひくものなり」

以上は「空華」についての説であるが、ではその「空華」と仏説の連続性とはどのように結びつけられるか。空華とは花の可能態であった。その可能態が、毎年の春になると年々実現して現実の花になる。それと同じように、達磨の教えは仏説すべてを可能的に含んでいる。その可能態が、達磨以後の仏祖たちに連綿と伝えられ、さまざまな花が咲くように、仏説が繫栄していく、そういうイメージを道元は抱いていたのではないか。道元はこの巻の比較的早い箇所で、「華開世界起」という言葉を打ち出している。これは「花開いて世界起こる」と読む。正法眼蔵の中でも最も美しい言葉の一つである。可能性としての花が実現して現実の花と咲き広がることで世界が花で充満する。それと同じように、達磨が撒いた種が実を結んで、仏の教えが世界に充満する、というようなイメージの言葉ではないか。






コメントする

アーカイブ