デリダ「グラマトロジーについて」を読む

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デリダは1967年に一挙に三冊の書物を刊行した。「エクリチュールと差異」、「声と現象」、「グラマトロジーについて」である。いずれも言語の問題を主なテーマにしている。「エクリチュールと差異」は、まさしく言語の問題をストレートに思わせる言葉を題名にしているし、そのほかの二冊も言語に関連する言葉を題名に使っている。「声と現象」はコミュニケーション言葉の担い手である声をテーマにしたものだし、「グラマトロジーについて」も言語に関連した言葉が題名に使われている。グラマトロジーとは、デリダによればエクリチュールについての学問という意味であり、そのエクリチュールは、話し言葉との対立における書き言葉をとりあえず意味している。

以上三冊の書物の中では、この「グラマトロジーについて」が、言語に関するデリダの思想をもっとも体系だって説明している。「声と現象」の成果を前提にしていることは、本文のいたるところから伝わってくるので、「声と現象」で打ち出したかれなりの言語論を、体系的な形で展開したのがこの書物だといってよいだろう。

この本はだが、言語論の範囲に自己を限定しているわけではない。言語の批判をつうじて、西欧の伝統的な思考スタイルを批判するというのが、この本の究極の目的である。その思考スタイルをデリダは、「形而上学」と呼んでいる。「形而上学」という言葉の定義には曖昧さが付きまとうが、デリダはそれをプラトンによって確立された思考スタイルだといっている。デリダによるその形而上学の定義はなかなか複雑で、そう簡単には説明できないのであるが、一応、現前性の上に成り立っている考えだといってよいだろう。現前性の思想というのは、あらゆる存在の根拠を物事の精神への現前に求める。自分自身の存在の根拠も、自己の自己への現前ととらえるのも、そうした考え方が自己にも適用されるからだ。

プラトンと言えば、イデアを前面にたてた合理主義的思想というイメージが強く、デカルトを思わせる現前性という言葉とはなじまないようにも思えるが、デリダによれば。プラトンこそが現前性の意義を最初に強調した思想家だということになる。プラトンの有名な対話篇「パイドロス」は、言語の問題を取り扱ったものだが、プラトンは言語に話し言葉(パロール)と書き言葉(エクリチュール」の差異を認めたうえで、話し言葉こそ本来的な言語といい、その根拠は話し言葉こそが、言語の担い手である声の現前性に支えられていると言った。言語とは、自己自身への声の現前なのであり、自分の声を聞くということに、言語は基礎づけられている。

現前性と並んでさらにいくつかの事柄を、形而上学の根本的な特徴として指摘することができる。まず、ロゴス中心主義である。ロゴスとは存在のなかに差別を見ることから生じる。つまり弁別的な理性の優位をロゴス中心主義というのである。この弁別は、典型的には二項対立の形をとる。二項対立は人間の世界認識に非常にマッチした見方なので、われわれはそれと意識せずにその対立を通じて世界を解釈している。プラトンの思想の根幹ともいうべきイデアと現象との二項対立は、そのもっともスマートなものである。

第二には音声中心主義である。音声というと、もっぱら感覚の領域を想起させ、形而上学とはなじまないと思われがちだが、音声であるところの声が、意味するものを担っていると考えれば、その意味の担い手を通じて音声を形而上学と結びつけて考えるのは自然だろう。音声中心主義にはまた、書き言葉に対する話し言葉の優位あるいは根源性というものを指摘できる。書き言葉に対する話し言葉の優位・根源性は、プラトンがすでに「パイドロス」のなかで言及していたものだが、その話し言葉の根源性は、声というものの持つ現前性と深く結びついている。ロゴスについても、それが意味するものをめぐる議論であるかぎりは、やはり現前性と無縁ではない。

第三に存在の目的論的秩序へのこだわりである。西洋の思想の伝統においては、すでにプラトンが最高位の存在を頂点とする存在の階層秩序について論じていた。それを「存在の大いなる連鎖」と呼んだりする。そうした連鎖には目的論的な秩序がある。そうした秩序感覚は、プラトン以後にも受け継がれた。といより一層強化された。キリスト教が、神の観念によってすべての存在者を階層秩序の中に整列させたのは、その強固な秩序観に基づくものである。存在の目的論的秩序が、人類に適用されると西洋中心主義になる。野蛮人と西洋人との差別は、単に人種的・文化的な差異にもとづくことを超えて、壮大な階層秩序を反映しているのであり、その階層秩序の頂点に西洋人がおさまる、という考え方が、西洋思想の根深い伝統として働き続けてきたのである。

デリダの哲学的な意図は、そうした西洋思想の根幹をなす形而上学を解体することにある。その解体の作業をデリダは「脱構築」と呼び、その言葉がデリダの思想をわかりやすく表現したものとして人口に膾炙してきた。そうしたデリダの意図は、この「グラマトロジーについて」と題した書物の中で本格的に展開されているのであるが、デリダはこの書物の中では、「脱構築」という言葉を表立っては使っていない。「差延」とか「代補」といった言葉を使って、実質的に形而上学の解体に結びつくような議論を展開している。

この書物は二部構成になっており、第一部においては、脱構築についての基本的な考えが提示され、第二部においては、ルソーを題材にとって、ルソーによる言語批判と形而上学のかかわりが論じられる。このルソーについての部分は、デリダの遊びの感覚が感じられ、哲学と文学との境界を無視するような文章運びをデリダは楽しんでいる。







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