十月革命とトロツキー:アイザック・ドイッチャー「武装せる預言者」

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アイザック・ドイッチャーは「武装せる預言者」の中で、トロツキーをロシア十月革命の最大の立役者として描いている。これは、基本的には間違いとは言えないが、通念とはかなり違った見方である。通念では、レーニンが最大の立役者であり、革命全体をコントロールしていたということになっている。レーニンこそが革命の司令塔であり、ドイチャーはその実行部隊の一人だったというのが、通念つまり普通の見方である。ところがドイッチャーは、トロツキーの役割を重大視し、トロツキーがいなかったなら十月革命はおこらなかっただろうというような見解を、この本の中で披露しているのである。トロツキーの伝記という体裁を考慮するとしても、あまりにトロツキー贔屓に傾いた結果、歴史の真相から外れているのではないか、との疑念を抱かせるほどである。

ドイッチャーといえども、トロツキー一人で十月革命を成功に導いたというような言い方はしていない。トロツキーが革命家として成功できたのは、レーニンと共同戦線をとるようになった成果だと言っている。そのレーニンとトロツキーは、長い間ライバルというより、敵対に近い関係にあった。レーニンは首尾一貫したボリシェビキだったが、トロツキーはずっとメンシェビキとして行動し、ことあるごとにレーニンと対立した。その最大の原因が、人間としての肌合いの違いが両者を遠ざけたということにあったのは確かだが、それ以外に、ロシア革命に関する根本的な認識の相違にも根差していた。ロシア革命が、単独で成功するのはむつかしく、あくまでも西欧における革命の随伴者として振舞うのがロシアにふさわしいあり方だとする認識は共有していたものの、レーニンは事情によってはロシアでの単独革命の可能性に期待をかけることができたのに対して、トロツキーは、資本主義の発展が遅れたロシアで、単独の革命が成功する見込みほとんどないと考えていた。トロツキーは、ときにぶれることはあっても、国際主義者として振舞い続けたのである。

そんなトロツキーがレーニンに妥協する気になったのは、レーニンの次のような考えに同意したからだった。世界大戦がきっかけとなって、ドイツはじめ西欧資本主義国における革命的な機運が高まっている。そういう情勢を前にして、「決定的と思われることは、ロシアが社会主義のために成熟していないということではなくて、ロシアはかれがそのために成熟していると考えているヨーロッパの一部だということだった。したがって彼は、ロシア革命がそのいわゆるブルジョワ的目的に限定されねばならない理由を、もはや認めなかった」(田中西二郎、橋本福夫、山西英一訳)。

つまりレーニンは、ロシアにおける革命を、ヨーロッパにおける革命の一部として位置づけ、ロシアにも革命を起こす理由があると主張し、それにトロツキーも同調したということになる。そういう理屈ならば、遅れたロシアでも革命が成功すべき理由は主張できると考えたわけであろう。

レーニンにとっても、トロツキーの自陣営への参加は願ってもないことだった。「レーニンにとっては、トロツキーの率いる有能な宣伝家、扇動家、戦術家、雄弁家たちの七つ星を、かれの党の『参謀本部』に引き入れることができたとしたなら、それこそ願ってもないことであった。だが、彼は自分が築いてきた党を誇りにし、それのもつ利点をよく知っていた。トロツキーと彼の友人たちは、彼の党に参加すべきである」。

かくしてトロツキーは正式にボリシェビキの一員となった。かれが二月のブルジョワ革命後にペテルブルグに現れたのは五月(レーニンは四月)のことだったが、八月にはボリシェビキ党中央委員会の委員となった。その少し前、七月反動によってトロツキーは投獄されており、出獄したのは九月四日だった。出獄後トロツキーは迷わずレーニンのもとにはせ参じたのである。その後トロツキーはボリシェビキの主要なスポークスマンとなる。そのスポークスマンとしての立場から、彼はケレンスキー政権の打倒と、すべての権力のソビエトへの移行を訴えた。それに対して民衆が応えた。革命は意外とあっさりと成功するのである。

十月革命のピークは十月二十四日から翌日にかけてであった。「赤衛軍と正規の連隊は、電光のように迅速に、ほとんど音もたてずに、タヴィリーダ宮、各郵便局と停車場、国立銀行、電話交換所、発電所、その他の戦略地点を占領した。二月に帝政を倒した運動は、一週間近く続いたのに、ケレンスキー政府の打倒は、ほんの数時間かかっただけだった」。

革命がすんなりと成功したことには、さまざまな要因があるだろう。それについてドイッチャーはあまり詳しい分析は行っていない。トロツキーの異常な手腕に大部分を帰している。革命の命運の鍵を握っていたのは、武力であるが、トロツキーは赤衛軍を自前で作ったほかに、正規軍の支持も取り付けていた。決定的なのは、クロンシュタットの水兵たちを味方につけたことだった。クロンシュタットの水兵たちは、1905年の革命騒ぎの際にも一役かい、それについてトロツキーは多大な貢献をしたのだったが、今回もトロツキーはクロンシュタットの水兵を味方につけることで、正規軍にも支持を広げたのである。

ただ、軍事力だけが革命の帰趨を決したわけではない。ケレンスキー政権への民衆の反感が主な理由である。ケレンスキー政権はあいかわらず戦争を続け、農民らの反感を招いていた。その農民たちは、地主から土地を奪い、地主の味方をする政権には敵対的であった。労働者階級は、だいたいがボリシェビキ贔屓であった。この時期労働者階級は、革命の主体になるにはまだひ弱であったが、反政府運動を掻き立てるだけの実力はつけていたのである。そんな要因が重なって革命が容易に成功したのだと考えられる。

ボリシェビキは、農民への土地の分配を続けることで、農民からの強い支持を取り付けた。農民からの支持がなければ、革命は長持ちしなかったであろう。





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