現前性:デリダの形而上学批判

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デリダの形而上学批判におけるキー概念となるのは「現前性」である。この現前性という概念をデリダは、かれの哲学的営みの出発点となったフッサール研究から思いついた。フッサールの現象学は、意識の与件としての現象に定位したもので、現象こそがあらゆる人間的経験の根源をなすと考えた。その経験の根源としての現象そのものをフッサールは現前性という概念で説明した。現前性というのは、すべての対象が意識にとっての現前性という形で与えられていることを意味する。対象的なものとして捉えられた自己自身もまたその一つである。自己とは、自己の意識に現前する自己のことをさすのである。

フッサールは、この現前性に存在性格を持たせることはなく、あくまでも操作的な概念として用いたのであるが、ハイデガーら存在の哲学者たちは、その現前に存在性格をもたせた。存在というのは、ハイデガーらによれば、基本的には意識への現前ということをさすのである。これは、デカルトの伝統につながる考えであって、西洋哲学ではなじみのある考え方だったので、容易に受け入れられた。存在というのは、あくまでも意識の相関者だというのが、デカルト以来の西洋哲学の常識だったわけである。

そう整理すると、現前性という概念は、デカルト以来の西洋近代哲学に固有の概念であって、それ以前の、古代や中世の思想とは無縁だということになるが、デリダは、その現前性という概念を、プラトンにまでさかのぼらせ、プラトンによって確立された現前性の哲学が、西洋の形而上学を支えてきたと考える。デリダは、形而上学批判のキー概念である現前性という概念をプラトンにまでさかのぼらせ、現前性の哲学の批判が即、プラトン以来の西洋形而上学全体の批判につながると主張するのである。

しかし、プラトンの思想は、基本的にはイデアの思想であって、そのイデアは現象とは分離されたものである限り、現前性とは無縁のように思われる。現前性と結びつくのはむしろ現象のほうであって、現象を超越したところになりたつイデアとは対立する関係にあるとするのが常識にかなっているからである。

このディレンマをデリダは、言語論を介してクリアしようとする。デリダにとってさいわいには、プラトンには言語を主題とした対話篇「パイドロス」がある。そのパイドロスをデリダなりに読み解くことで、プラトンを現前性の哲学に結び付けようというのである。

「パイドロス」の中で展開されている議論は、言語の二つの様相である話し言葉と書き言葉のうち、話し言葉のほうが根源的であり、書き言葉をその話し言葉から派生したものだという主張である。書き言葉はあくまでも話し言葉の代理(デリダはのちにそれを<代補>と言い換える)であり、それ自体として自立性をもっているわけではないとした。書き言葉は、話し言葉よりも価値の低いものであり、したがって従属的な扱いをする必要がある、というのがプラトンが「パイドロス」で展開した議論のあらましである。

なぜ、話し言葉のほうが根源的で、書き言葉は派生的なのか。「パイドロス」での議論では、話し言葉(以下<パロール>という)は、人間の心のなかにあることをストレートに表現している。それに対して書き言葉(以下<エクリチュール>という」は、話し言葉を文字の形に書き留めたものにすぎない。要するにパロールの影のようなものであって、パロールとは別にエクリチュールが成り立つはずはない、エクリチュールには自律性は求められないというのが、「パイドロス」における言語論の概要である。

パロールとエクリチュールを二項対立の関係においたうえで、パロールを根源的、エクリチュールを派生的とするわけであるが、その場合、パロールの根源性を担保するのが現前性である、とデリダは言う。プラトン自身は現前性という言葉は使っていないので、プラトンにかわってデリダが、プラトンの言いたかったことを定着したというわけであろう。現前性というのは、意識への現前ということだが、言葉において意識に現前しているのは声である。声が意識に直接現前していることを理由にして、声によって表現されるパロールの根源性を主張するわけである。こうしてみると、デリダによって解釈されたプラトンの言語学は、声によって担われている(つまり意識に現前している)パロールを根源的なものとし、エクリチュールはそれを文字の形に定着した派生的なものとして捉えるわけである。

以上、デリダは形而上学の根本的な概念である現前性を、プラトンにさかのぼって定義づけ、その上で、その現前性に根本的な批判を加えることによって、西洋形而上学全体を批判・解体しようとたくらむわけである。

デリダの議論は非常に込み入っており、しかも文学的な装飾をまとっていてわかりにくいのであるが、要するに、プラトンにさかのぼっての形而上学批判を成り立たせるためには、言語論を通じての批判がもっとも有効だと考えたわけであろう。その言語論の中核的な概念セットが、パロールとエクリチュールの対立なので、その対立の内実を究明することで、形而上学批判の手がかりがえられるかもしれない、そうデリダは考えたのだと思う。

その場合に肝心なのは、パロールとエクリチュールの対立がニセの対立だと証明することである。というのも、形而上学の前提がその対立の上に成り立っているのであれば(じっさいそのとおりなのだが)、その対立をニセのものとして無意味化すれば、形而上学全体の基礎が崩壊するからである。

上の対立には、パロールが本源的であって、エクリチュールは派生的だという意味が込められていた。だがデリダは、パロール以前にもっと根源的なものが働ていているとする。それをデリダは「現エクリチュール」というのだが、それをわかりやすく言うと、人間の弁別あるいは分節能力ということになる。分節能力とは、対象に差異をみつけ、それを弁別する能力のことをいう。その能力が人間の知性を基礎づけている。つまり人間には弁別的な知性がそなわっており、その知性を働かせながら、対象についての思考をパロールという形で表現する。パロールというのはこの場合、言葉の種類であることを超えて、人間の思考活動そのものをさしてもいる。その思考活動を担っているのが現エクリチュールだとデリダはいう。そういうことでデリダは、パロールとエクリチュールがいづれも原エクリチュールによって基礎づけられていると考える。そのうえで、パロールとエクリチュールの対立を相対的なものにし、そうすることで、その対立をニセの対立だとして位置づけしなおし、それによってその対立のうえに成り立っている西洋形而上学全体を解体しようとするのである。






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