光明:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第十五は「光明」の巻。光明とは仏の智慧を光の明るさにたとえたもの。したがってこの巻の主題は、仏の智慧を説くことにある。ここで道元が説くところの仏の智慧とは、中国的な仏教の智慧であり、その中でも禅の教えが含むところの智慧である。そんなわけでこの巻は、仏教が中国に始めて伝来したことへの言及から始まり、達磨西来を契機にその智慧が一段と深化したことを強調する。「これ仏祖光明の親曾なり。それよりさきは仏祖光明を見聞せることなかりき、いはんや自己の光明を知れるあらんや」というほど、達磨の意義を称賛するのである。

ここで「仏祖光明」と言っているのは、仏の智慧が光明であるという意味だが、それを凡人は文字通り光の明るいさまにたとえて満足している。だがそれは皮相な受け止めかたである、と道元は言う。「転疎転遠の臭皮袋おもはくは、仏光も自己光明も、赤白青黄にして火光・水光のごとく、珠光・玉光のごとく、日月の光のごとくなるべしと見解す。惑従知識し、惑従経巻すといへども、光明の言教をきくには、蛍光のごとくならんとおもふ、さらに眼晴頂寧の参学にあらず」。

では、仏祖光明とは、何をさしていうのであるか。それについて道元は、大宋国湖南長沙招賢大師の言葉を引用して説明する。この巻冒頭の言葉である。いわく、「尽十方界是沙門の眼、尽十方界是沙門の家常語、尽十方界是沙門の全身、尽十方界是自己の光明、尽十方界自己の光明裏にあり、尽十方界一人として是自己にあらざるなし」。まず沙門つまり出家者が光明を体現していると説かれ、ついで沙門以外のすべての人々も光明を体現していると説かれ、最後にあらゆる人がわれなのであるから、そもあらゆるわれが光明を体現していると説かれる。要するに世界に存在するすべての人が光明を体現しているというわけである。

この引用を踏まえたうえで、道元自身の考えが述べられる。「いはゆる仏祖光明は尽十方界なり、尽仏尽祖なり、唯仏与仏なり。仏光なり、光仏なり。仏祖は仏祖を光明とせり。この光明を修証して、作仏し、坐仏し、証仏す。このゆゑに、『此光照東方万八千仏土』の道著あり」。仏祖光明すなわち仏の智慧は十方世界にことごとく充満しているということである。世界そのものが仏の知恵、その智慧の現れだ、ということだ。その光明が、東方万八千仏土を照らすと言い換えられるのだが、その「東方」というのは、方角としての東という意味ではなく、世界の中心というような意味である。世界の中心を照らす仏祖光明は、世界全体をも照らすというふうに思念されている。

その仏土というのは、他でもない、われわれ一人一人の眼晴裏にある。「仏土といふは眼晴裏なり。照東方のことばを見聞して、一条白練去を東方へひきわたらせんがごとくに憶想参学するは学道にあらず」。ここで眼晴裏というのは、人間の眼のいきとどく範囲という意味だから、仏土光明は我々一人一人の人間の眼のとどく範囲で展開しているということである。

仏土がたまたま人間の眼晴裏にも映し出されると考えることと、仏土が存在するのは人間の眼晴裏であって、それ以外には存在のしようがないと考えることとの間には、根本的な相違がある。道元は、仏土は人間の眼晴裏にしか存在しないと考えていたようである。これは唯心論の考えに通じるものだ。仏教では、華厳経が唯心論的な思想を展開し、道元もそれに影響されたようであるから、こういう形で唯心論を説くのは不思議ではない。

じっさい道元は次のように言って、唯心論を説いているのである。「尽十方界は是自己なり。是自己は尽十方界なり」。自己という言葉には、われわれ一人一人の自我という意味とともに、あらゆる物象の実体という意味もあるが、ここではわれわれ人間の自我というふうに使われている。その人間の自我が、世界をまるごと含んでいると言っているわけであるから、つまり唯心論の思想をあからさまに説いていると考えてよい。

その考えを道元は「光明というは人々なり」と言い換えている。仏の智慧とその現れである光明とは、ほかならぬわれわれ人間を舞台として展開しているというのである。人間を離れて世界はない。世界は人間に存在根拠をもっている、という思想を、道元はこの巻で強く押し出したといえよう。






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