ロイ・アンダーソン「ホモ・サピエンスの涙」:人間を超越論的視点から描く

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ロイ・アンダーソンは、人類を神のような高みの視点から描くような、つきはなした描き方が得意だ。そういう一段上のレベルから見おろすことを、哲学用語では、超越論的という。ロイ・アンダーソンの映画には、そういう超越論的な視線を感じるのである。

「ホモ・サピエンスの涙」と題したこの映画(2019年)も、超越論的視点から描かれたものだ。だいたい、「ホモ・サピエンスの涙」という題名からして超越論的である。ほかならぬホモ・サピエンスの一人であるロイ・アンダーソンが、そのホモ・サピエンスを、一段上の高みから見下ろしている、といった風情をこの映画は強く感じさせる。

女性のナレーションにしたがって、さまざまな場面が現れる。女性が「わたしは~していつ男(女)の人を見た」とアナウンスすると、当該の人物が画面に登場する。その画面はワンシーン・ワンカットからなり、それが33シーン集まって映画が構成されるというわけである。

画面相互の間には、関連らしいものはほとんどない。特定の人物が複数回現れることはあるが、それらの画面の間にも関連はない。だから全体として脈絡のなさを感じさせられる。タイトルに「涙」が出てくるが、泣いているのは例外的で、ほとんどの場合は泣いてはいない。ただどの人物も、なにがしらに問題を抱えているとアナウンスされる。中には、靴に問題を抱えており、これ以上靴を履いてはいられないとばかり、靴を脱ぎ捨てて裸足で歩く女性も出てくる。

33シーンの中には、度肝を抜くようなものもある。たとえば、信仰を失った男が、十字架を背負って坂道を歩き、その男を周りの人間が鞭打っているシーンなどである。これは、明らかに十字架を背負ったキリストを茶化している。加えてこの信仰を失った男は、その理由として神に見捨てられたことをあげているのである。

また、一組の男女が抱きあいながら空中を遊泳する場面がある。これはシャガールの絵を意識していると思われるが、なぜアンダーソンがシャガールにこだわったか、そのわけはわからない。

こんな具合にこの映画は、ロイ・アンダーソンの不条理趣味が頂点に達した作品といってよい。





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