トロツキーの政治的・軍事的才能:ドイッチャーのトロツキー伝

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ロシア革命に際してトロツキーの果たした役割は、政治的なものと軍事的なものとがあった。政治の分野では、かれは第二次大戦を終結させ、ソビエトの国家体制を西洋諸国に認めさせる任務を帯びた。この任務はあまりはかばかしい成果は生まなかった。むしろソビエトを屈辱的状態へと追い込んだ。トロツキーが直接携わったドイツとの単独講和は、ブレスト・リトウスク条約の締結に結実したが、それはロシアにとって非常に不利なものであった。もしドイツが大戦の敗戦国にならず、強い力を維持し続けたならば、ソビエト・ロシアは大きな犠牲に甘んじつづけたであろう。

一方、軍事面でトロツキーの果たした役割にはめざましいものがあった。まず、ケレンスキー政権を打倒するについて、正規軍の支持をかれがとりつけたことが決定的な転換点となった。ところがいったん革命が成功して、旧政権が後退すると、正規軍はすぐにばらばらに解体してしまった。それには一か月もかからなかった。旧政権の残党による反革命の動きや、外国の干渉を前にして、ソビエト自体の軍事力を整えることが急務になった。その使命を短期間で果たしたのがトロツキーだった。かれは従来の常備軍にかえて、国民軍からなる赤衛軍を創立し、みずからその司令官になった。革命直後におけるトロツキーの主要な役割は、赤衛軍を率いて、白衛軍や外国の干渉と闘うことであった。

まず、ブレスト・リトフスク(ベラルーシの西部、ポーランド国境近くの町)におけるトロツキーの活躍ぶりを見よう。これはドイツとの単独講和を目的としたものだったが、ボリシェビキは本来、連合国と同盟国全体を巻き込んだ全面講和を目指していた。その講和の条件を、ソビエト側は次のように表明していた。「相戦う富強な国のいずれかが弱小国を支配するかを決定するため、それのみを目的として、戦争が終結されるべきものとすれば、それこそ人類への最大の犯罪、と本政府はみなすであろう・・・すべての諸国民、諸民族に例外なく平等に公正な講和が・・・即時締結されるべきである、という決定を本政府はおごそかに声明する」。この声明には領土の不拡大や民族自決の原理が含まれていたのだったが、それを連合国も同盟国も無視した。

連合国としては、ロシアをドイツと闘いつづけさせ、ともに自分らの敵であるその両者を疲弊させることが目的だったし、ドイツとしては、ロシアと単独講和を結ぶことで東部戦線への愁いをなくし、西部戦線に戦力を集中させることを狙っていた。だから、全面講和など無理筋の話だったわけである。だが、ソビエトとしては、このままダラダラと戦争を続けることに利益はなかった。そこで、ドイツとの単独講和の是非が当面の課題となった。ドイツと単独講和し、革命の定着に力を集中する体制を整えるか、それとも戦争を続けるか、そのどちらかに判断を迫られたのである。

レーニンらボリシェビキの主流派は、ドイツとの単独講和を主張していた。トロツキーの態度はまだ明確にはなっていなかった。トロツキーを説き伏せて単独講和に傾かせたのはレーニンである。トロツキーがなぜレーニンの方針を受け入れたか、その詳細な理由についてドイッチャーは説明していない。レーニンへの畏敬が、かれを単独講和に傾かせたと書いているのみである。ただ、単独講和によって一息つき、態勢を立て直している間に、ドイツやほかのヨーロッパ諸国で労働者の革命が起きることを、レーニンが期待していたフシはある。

ブレスト・リトフスク条約の内容は、ソビエト・ロシアにとってひどいものだった。バルト三国、フィンランドそしてウクライナを事実上ドイツの支配下にゆだねるというものだった。じっさい条約が調印されると、二週間足らずのうちに、ドイツはキエフとウクライナの膨大な領域を占領し、オーストリアはオデーサへ、トルコはトレビゾンドに侵攻したのである。

ドイツとその同盟国が大戦に敗れたことで、ブレスト・リトフスク条約は無効になった。それはソビエト・ロシアにとって棚から牡丹餅のような僥倖であった。

政治的な舞台ではあまり活躍できなかったトロツキーだが、軍事の面ではめざましい活躍ぶりをしめした。トロツキーはそもそもアジテーターとしての才能を発揮したのであり、その才能を最大限に発揮して、軍事的な業績を重ねることができたのである。

トロツキーが創設した赤衛軍は、国民軍を標榜していた。国民軍というのは、常備軍ではなく、戦争の必要に応じて招集される臨時的な軍隊であり、労働者や農民から志願したものを中核としていた。それにはトロツキーなりの軍事思想がある。軍隊というものは、階級の、とりあえずは労働者階級の利益をまもるためにあるのであって、したがってその時々に労働者階級が置かれた状態に応じて、組織されるべきものであった。それはそれで一つの理想論ではあったが、ロシア革命直後には、そんな理想論が通じるような状態ではなかった。旧政権につながる反革命勢力の反乱や、欧米諸外国の軍事介入がおしせまっていた。そうした軍事的な危機に直面しては、なりふりかまわぬ政策が避けられなかった。軍事徴発はなかば強制的なものとなり、戦争も各地で常態化した。革命後数年間は、ソビエト・ロシアはつねに戦争していたといって過言ではなかった。その戦争を遂行したのは赤衛軍であり、その司令官であるトロツキーであった。この時期のトロツキーのめざましい活躍ぶりをみれば、トロツキーが天性の軍事指導者だったことが納得される。

赤衛軍を有効に動かすために、トロツキーは「ツァーの将校たち」も採用した。無論革命への忠誠度をたしかめた上でのことである。軍隊を動かすには専門的な知識と技術が必要であり、そうしたものを持っている人材は、「ツァーの将校」といえども活用しないいわれはなかった。もっとも時間の経緯とともに、そうした人材の比重は低くなってはいった。1918年には、赤軍の指揮と軍政の幹部の四分の三以上が旧政権の将校で構成されていたが、内戦が終わるころには、三分の一を占めるにすぎず、大部分は下士官から昇進したものだった。






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