存在の目的論的階層秩序:デリダの形而上学批判

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西洋形而上学における存在の目的論的階層秩序の問題をデリダは、自民族中心主義あるいは西洋中心主義と結びつけて考える。もっとも単純な話としては、文字を持つ西洋文化は文字を持たない「未開文化」よりも進んでいるといった具合に、文化の相違を発展段階の相違と同一視することがあげられる。この発展段階思想は、目的論的な色彩を強く帯びているので、発展段階の進捗具合がそのまま階層秩序を構成する。西洋は発展のもっとも高度な段階に達したものであり、その場合の発展とは、ある種の目的としての機能を持つがゆえに、発展段階による差異の体系は、存在の目的論的階層秩序を構成する、というふうに考えるわけである。

ところで、存在の目的論的階層秩序という概念は、キリスト教の影響を強く感じさせる。神を頂点とした存在の階層秩序についての議論は、中世の西洋において一つのピークに達した。その議論を特徴づける言葉として、アーサー・ラブジョイが「存在の大いなる連鎖」と言ったことはよく知られている。すべての存在は、同じ基準にもとづいて階層秩序の中に配列される。その秩序から漏れるものはない。悪と言えども、この秩序の中に一定の地位を占めると考えられた。

その場合に、階層秩序の原理となるものとして、ロゴス中心主義があり、その前提としての音声中心主義がある。ロゴス中心主義、音声中心主義、存在の目的論的階層秩序は、混然一体として結びついているのである。そしてその三者を結びつけているもっとも根源的な原理が、現前化の思想なのである。現前化というのは、要するに存在の根拠となる原理である。その根拠は、音声を通じて表現される。音声はロゴスを担っている。ロゴスとは分節の原理のことをいうから、ロゴスを通じて分節されたものが、一定の原理を通じて構造化される。それがおのずから存在の目的論的階層秩序を構成する、という具合いに考えることができる。

この存在の目的論的階層秩序のもっともわかりやすい例としてデリダは、文字の発展段階説を提示する。デリダによれば、世界中に現存する文字は三つに大別できる。西洋で主流のアルファベット(完全な表音文字)、エジプトを起原とする象形文字(ほぼ完全な表意文字)、中国の漢字に代表されるような表意機能と表音機能とが結びついたもの。これら三つのタイプの文字のうち、デリダがもっとも高度な機能を持った文字と考えるのは西洋のアルファベットのたぐいである。アルファベットは、純粋に音だけを現わし、それのみでは意味をあらわすことはない。そのように音だけを担うというのが、文字の本来の姿であるから、音以外の要素を含んだ漢字や象形文字は中途半端な文字ということにならざるを得ないのである。

こうした文字の発展理論は、西洋人にはごく当たり前に聞こえるが、それはすでに西洋的な原理にどっぷり使っているからだとデリダは反論する。そして、これら三つのタイプの言語の相違は、同じ基準に従って展開される発展の諸段階なのではなく、異なった原理によって区別される文化の相違だとする。そうした議論の先駆者としてデリダはライプニッツをあげる。ライプニッツは必ずしも西洋中心主義的な偏見から免れているわけではないが、しかし文字の相違が発展段階の相違を現わすのではなく、文化の相違を現わすということくらいはわかっていた。ライプニッツによれば、エジプトの(象形)文字は、民衆的、感覚的、寓意的であり、中国の漢字は哲学的、知性的であり、アルファベットは完全な表音文字であることから技術的であるということになる。アルファベットは単に音声を代理するものにすぎないが、そのことで、表音文字としてはより完全なのである。それにたいして、エジプトの文字や漢字には表音機能のほかの夾雑物が混じっている。だからそれらの文字は、「聾の人によって創出されたように思われる」とライプニッツは言うのである。

こうした考え方が、音声中心主義からきていることは明らかである。ライプニッツのように文化の相対性を重んじる思想家でさえ、そうした音声中心主義から脱却できていないのである。

ここでもう一度存在の目的論的階層秩序に戻る。その秩序を支えているのが、音声中心主義であったということは、秩序の中心に根源としてのパロールがあり、その代理としてのエクリチュールがあり、エクリチュールの内部には、根源への近接性にもとづく存在の濃淡がある。根源に近いほどそれの存在は濃度をまし、根源から遠ざかるほど濃度がうすくなるというわけである。根源はまた、西洋の知的伝統においては、神と同義のものとして語られるから、根源を基準とした存在の目的論的階層秩序は、神を頂点あるいは中心とした一義的な秩序ということになる。頂点にせよ、中心にせよ、それは一つしかありえないから、そうした原理の上に立つ西洋形而上学は、単一の原理によって世界をもれなく解釈しようとする野望だということができよう。

こうした目的論的解釈は、とりあえずは中世の神学思想へさかのぼると思われるが、じつはプラトンにもそういう考えは指摘できる。プラトンにも根源という思想はある。それはイデアのもっとも純粋なものと考えられているが、とにかくそれを根源としてさまざまな存在様相が生まれ出てくるとプラトンは考えていたのであり、その点では、中世以降の目的論者の先駆者と言えるのである。それゆえ、存在の目的論的存在秩序をめぐるデリダの構想は、プラトンまでさかのぼる西洋形而上学全体の批判に結びつくということになる。






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