行持その三:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵「行持」全巻の最後は、師天童如浄をめぐる話である。その如浄について道元は、仏教者としての生き方と、思想との両面から解説している。生き方については、次のような簡略な説明がなされる。「先師は十九歳より、離郷尋師、辨道功夫すること、六十五載にいたりてなほ不退不転なり。帝者に親近せず、帝者にみえず。丞相と親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣師号を表辞するのみにあらず、一生まだらなる袈裟を搭せず、よのつねに上堂、入室、みなくろき袈裟、裰子をもちゐる」。

十九歳で仏門に入って以来、六十五歳にいたるまで不退不転を貫き、権力におもねず、贅沢な衣装をつけず、つねに粗末な身なりをして修行に励んだというのである。そんな如浄を一目見て、道元は確信する。「まのあたり先師を見る。これ人にあふなり」と。

思想の面については、如浄自身の次のような言葉を引用して、簡単に説明している。「参禅学道は、第一 有道心、これ学道のはじめなり。この二百年来、祖師道はすたれたり、かなしむべし。いはんや一句を道得せる皮袋すくなし」。仏道修行の極意は 有道心にある。 有道心とは、仏道をおさめようとする決意のことをいう。発心ともいわれる。要するに悟りへの強い意志のことであり、その意思をつねに保つことが肝心なのだというのである。

これは精神の形式的なありかたについて述べたものといえるが、では、その実質的な内容は如何。それについては、如浄の次のような言葉を引用している。「参禅は身心脱落なり、焼香 礼拝 念仏 修懺 看経を用いず、 祗管に坐して始めて得ん」。

身心脱落とは、道元が如浄から直伝された仏教思想の肝のようなものである。これについて道元は繰り返し語っている。自分自身の思想の核心と位置付けていたのである。身心脱落はさとりに到った境地をいい、一時的な現象ではなく、恒常的に保つべき状態である。それを実現するのが坐禅だ。坐禅をすることによって、心身を脱落し、さとりの境地を保ちつづけることができる。坐禅をもっぱらにする、つまり 祗管打座が大事なのであって、焼香 礼拝 念仏 修懺 看経のたぐいは二義的なことがらなのである。ところが凡俗は、そうした二義的なことがらを重視し、坐禅を怠る。そういう態度を道元は次のように言って批判する。「あはれむべし、天童をしらざるやからは、胡説乱道をかまびすしくするを仏祖の家風と錯認せり」。

如浄の祗管打座の厳しいあり方を道元は次のように描写している。「雲堂公界の坐禅のほか、あるいは閣上、あるいは屏処をもとめて、独子ゆきて穏便のところに坐禅す。つねに袖裏に蒲団をたづさえて、あるいは巌下にも坐禅す。つねにおもひき、金剛座を坐破せんと。これもとむる所期なり。臀肉の爛壊するときどきもありき。このときいよいよ坐禅をこのむ」。

尻の肉がただれるほど坐禅を徹底したというのでる。

行持全巻の末尾は次のような言葉で始まっている。「しづかにおもふべし、一生いくばくにあらず。仏祖の語句、たとひ三々両々なりとも道得せんは、仏祖を道得せるならん。ゆゑはいかん、仏祖は身心一如なるがゆゑに、一句両句、みな仏祖のあたたかなる身心なり。生いくばくにあらず。仏祖の語句、たとひ三々両々なりとも道得せんは、仏祖を道得せるならん。かの身心、きたりてわが身心を道得す。正当道得時、これ道得きたりてわが身心を道取するなり。此生道取累生身なるべし。かるがゆゑに、ほとけとなり祖となるに、仏をこえ祖をこゆるなり」。

人生は短いがゆえに、仏の教えの一端なりとも摂取することが肝要である。仏は身心一如なるがゆゑに、どんな教えの言葉にも真理が含まれている。その真理を体得すれば、己もまた仏祖に直接つながることができるのである。こういったうえで、最後は次のような言葉で締めくくられる。

「三々両々の行持の句、それかくのごとし。いたづらなる声色の名利に馳騁することなかれ、馳騁せざれば仏祖単伝の行持なるべし。すすむらくは大隠小隠、一箇半箇なりとも、万事万縁をなげすてて、行持を仏祖に行持すべし」。

「行持を仏祖に行持すべし」とは、くどい言い方に聞こえるが、要するに、先師の行いにならえば、自分も先師とおなじようなさとりの境地に達することができるということである。





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