恁麼:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第十七は「恁麼」の巻。恁麼とは、道元が宋に留学していた当時の江南地方の俗語で「そのように」とか「そのような」といった意味の言葉である。それだけならなんということもないが、しかし道元はこの言葉に特別な意味を持たせることがある。「そのような」を名詞形に用いて、「そのようなもの」という意味を持たせ、そのうえで、その「そのようなもの」をいわゆる「さとりの境地」という意味に使うのである。

道元は、この巻の冒頭で、雲居山弘覺大師の次のような言葉を引用し、恁麼がさとりの境地をあらわすということを示している。すなわち、「一日示衆云、欲得恁麼事、須是恁麼人。是恁麼人、何愁恁麼事」。これは、そのようなこと(さとりの境地のこと)を得ようと欲すれば、そのような人(さとりの境地に達した人)にならねばならぬ。そのような悟りの境地に達した人であれば、わざわざそのような悟りの境地について患うことはない、という意味である。

では、そのさとりの境地とはいかなるものか。道元は、古仏の言葉を引きながら、さとりの境地とはいかなるものかについて説いていく。まず、西天より言い来れる言葉として「若因地倒、還因地起、離地求起、終無其理」をあげ、それについてコメントする形で、さとりの境地について触れる。この言葉の意味は、「地によって倒れるものは地によって起きる、地を離れて起きようとしても無理である」という意味だが、これは真理を捉えた言葉ではない、と道元は言う。むしろ、地によって倒れるものは、地によって起きようとしても決して起きられない。地によって倒れるものは空によって起き、空によって倒れるものは地によって起きる、というべきである。

こうした逆説的な言い方は道元の得意とするところだが、この場合、この逆説表現は何を意味しているのか。それは、ここだけの語句の詮索では明らかにならないので、別の糸口が必要になる。

その糸口として道元がまずあげるのは、第十七代の師伽難提尊者の言葉である。伽難提尊者は、鈴鐸の風に吹かれて鳴る様子を聞いて、「風の鳴にあらず、鈴の鳴にあらず、我心の鳴なり」と言った。これは、鈴が風に吹かれて鳴っているように見えて、実は鈴が鳴っているのでも、風が鳴っているのでもない、それを聞いている人の心が鳴っているという意味である。どういうことか、現象は幻のようなものであり、その現象を生じさせている心こそが、本当のものなのだということであろう。

これに似た主張が、第三十三大鑑禪師(六祖慧能のこと)の言葉として紹介される。慧能は、幡が風に吹かれて動いているのを見て、「風動にあらず、幡動にあらず、仁者心動なり」と言った。その意味は、風が動いているのでもなく、幡が動いているのでもなく、人の心が動いている、ということである。つまり、現象を見て、それにとどまってはならぬ、現象の背後には、その根拠としての心がある。その心が様々な現象を生じさせるのだ、という主張である。こうした主張は、唯識派に特徴的なもので、その背景には華厳経がある。その華厳の唯識的な考えに、道元が親和的だったことを、この巻は感じさせる。

だが、この巻が感じさせるのはそこまでであって、さとりの境地の内実がどのようなものかは、つまびらかにはされていない。道元は、悟りの境地とは実践によって体感されるものであって、言葉を通じて会得できるものとは考えていなかったので、あえてさとりの境地について、言葉を使って云々することは避けたのであろう。






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