根源の彼方に:デリダ「グラマトロジーについて」

| コメント(0)
デリダの著作「グラマトロジーについて」は、足立和弘の邦訳(現代思潮社刊)では「根源の彼方に」という副題がついている。というより「根源の彼方に」の方を先に表示しているので、こちらの方をメーンに受け取るものがいるのではないか。「グラマトロジーについて」の主要テーマが、根源としての(音声言語の)現前性とその代理としての文字言語との関係を論じることにあれば、「根源の彼方に」という副題は理にかなった命名といえよう。根源とその代理との関係では、対立しあう二つのうち、根源のほうが重視されるので、その根源に議論が収束していくのは自然なことである。普通なら、代理に対する根源の根源性を確認することで、根源をめぐる議論は終わるはずなのだが、それが終わらない。根源が文字通りの意味での根源ではなく、代補をそのなかに含んだ根源だというややこしい事態が明らかになるからだ。つまり、根源を求めての議論が、根源まで到らないわけである。そこで、どこに本当の根源があるのか、それともあると思ったのは幻覚で、実際にはそんなものはないのか。そういう疑問が生じてくる。その疑問が「根源の彼方に」むかって開かれるのである。

言語についての単純なモデルでは、現前性としての音声言語を文字言語が代理するという関係にあった。それは一方的な関係であって、あくまでも音声言語から文字言語が派生するのであり、その逆はありえない。ところがよくよく分析すると、音声言語自体のなかに文字言語の原始的な成分が含まれていることにデリダは思い当たった。それをデリダは、原エクリチュールと呼ぶ。原エクルチュールというのは、狭義の意味でのエクリチュールではない。狭義のエクルチュールは、意味するものの体系として分節作用の構造を含んでいるが、その分節化の働きをデリダは広義の意味でのエクリチュールだという。その広義の意味でのエクリチュールが、原エクリチュールとして、音声言語を成立させている。

どうしてそういうことになるかというと、一切の分節を経ない純粋な音声言語などは実際にはありえないからである。そういう音声言語があったとしたら、それは叫びとかうめきとかいったものであろう。だが、そういう単なる情念の発露は、たしかに音声言語の原始的なかたちではあるが、それで以て音声言語すべてがカバーされるわけではない。音声言語はすでに、それ自体の中に、分節作用を含み、その分節作用が意味されるものの論理的な内容を表現させるように働くのである。

こうしてみると、言語というのは、音声言語もその代理としての文字言語も、共通の基盤の上に成り立っているとわかる。その共通の基盤とは、分節化の働きである。分節というのは、ある対象を他の対象から差異づけるという働きである。人間の認識作用というのは、世界についての差異化の働きなのである。

ともあれ、音声言語と文字言語についての分析は、その一組の対立を単純な対立に還元することを許さなくした。ルソーに依拠しながらデリダは、ルソーのいうような根源への回帰を目指したのであったが、その根源が純粋な意味での根源ではなく、原エクリチュールに媒介されたものであることがわかった。その事態をデリダは、根源のうちに代補が含まれていると表現する。「人は代補から本源へと遡ることを望むが、本源においては代補が存在すると認めざるを得ないのだ」。

これは、少なくともルソーにとっては非常に都合の悪いことである。ルソーは、根源(本源としての音声言語)と代補(文字言語)を単純に対立させ、代補を否定して根源を復活させれば、人間は本来のあり方を回復できると考えたのであったが、その根源が実は代穂によって汚染されていたとしたら、どういうことになるか。根源への復帰という望みは、空望みに終わるであろう。これはルソーにとっては気の毒な事態である。そうなった理由をデリダは、次のように言っている。「ルソーは、音声言語以前に、またその中に現れる書差作用(エクリチュール)というものを考えることができなかった。彼が現前の形而上学に所属するかぎり、彼は生命に死のたんなる外在性を、善に悪を、現前に代理を、<意味されるもの>に<意味するもの>を、<代理されるもの>に<代理するもの>を、顔に仮面を、音声言語に文字言語を、夢見ていた。だが、そのような対立は密接不可分にその形而上学の中に根を下ろしている」。

つまりルソーは、形而上学の伝統から自由になれなかったために、形而上学を有効に解体することができなかったというのである。ではどうすればよいのか。形而上学を解体するには、形而上学の枠の中で動いていてはだめだ。その枠の外から、枠全体を破壊するようでなくてはならない。形而上学の枠の外から形而上学を解体するためには、形而上学とは全く異なった思考の枠組みを用意せねばならぬと思うのだが、そういう斬新な思考の枠組みをデリダが提示できているわけではない。デリダがここでやっていることは、かつてニーチェが試みたように、西洋形而上学の伝統に異議を唱え、それのみが世界を解釈する準拠であるわけではないということを、とりあえず宣言することにとどまるだろう。宣言はしたものの、その効果についてはいまのところ確かな自身は持てないというところか。

だが、ルソーが失敗し、デリダがまだ成功していない形而上学の根本的な批判に意味がないというわけではない。そんなことを考えるのは夢を見るようなものと言われるかもしれないが、夢にもある程度は意味があるものだ。そうした気持ちをデリダは抱いているようであり、その気持ちをルソーの次のような言葉で代弁させて、この書物を結んでいる。いわく、「人々は或る不愉快な夜の夢を哲学だとして、深刻ぶってわれわれに示す。私もまた夢を見ているのだと言われるかもしれない。それはそうだ。しかし、他の人とは違って私は自分の夢を夢だとはっきり言うのであって、その夢が目覚めている人々に何か役立つことがあるかどうかは、読者に探求していただくことにしようと思う」。





コメントする

アーカイブ