ポジシオン:デリダとマルクス主義者との対談

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ジャック・デリダが1972年に刊行した「ポジシオン」は、三篇の対談集を集めたものである。そのうち、表題と同じく「ポジシオン」と題したものは、デリダとマルクス主義者との対談である。対談の相手は、ウードビーヌとスカルベッタ。この二人について小生は名前を含めて何も知らない。この対談を読む限り、いわゆる主流のマルクス主義に属しているようだ。デリダがなぜかれらとの対談に応じたのか。デリダは若いころから実在論を観念論と一緒くたに批判してきた経緯があるので、その実在論の変種と言えるマルクス主義に一定の理解を示している姿はちょっと異様に見える。

対談の眼目は、デリダの形而上学批判が、マルクスの弁証法的唯物論と交叉するものを持っているかどうかということである。ウードビーヌらは、デリダを頭から批判するのではなく、その形而上学批判に観念論批判の一つのすぐれたあり方をみとめ、それをマルクス主義の観念論批判になんらかの形で結び付けたいと思ったようだ。つまりかれらフランスのマルクス主義者はデリダを同盟者として扱うことができないかとか考えたようなのだ。それに対してデリダは慎重に応えている。かれは自分の思想、とりわけ差延の思想と、マルクス主義の弁証法的な思想との間に、共闘の可能性を一定程度認めながら、自分の思想とマルクス主義の思想は、完全に重なるものではないと匂わせている。そこがマルクス主義者たちをイライラさせるところで、この対談は、そうしたイライラの雰囲気の中で展開されているといった趣を呈している。

デリダとマルクス主義者との思想上の共通点として、二つあげられている。一つは西洋思想の伝統を支えてきた観念論、そのエッセンスとしての形而上学の批判をとおして、西洋思想を根本から解体・再建しようとする試み。それをデリダは脱構築と呼び、マルクス主義者なら革命的な実践などと呼ぶだろう。ともあれこの対談の中でデリダは、自分の仕事を「脱構築」という言葉で呼んでおり、西洋思想への批判の姿勢を前面に押し出している。そうした戦闘的ともいえる姿勢はマルクス主義者と共有できるものとデリダは考えていたようだ。

もう一つのほうは、かなり技術的な問題にかかわる。マルクス主義者たちは、デリダのいう「差延」をマルクス主義者の弁証法的唯物論における矛盾の概念と比較し、両者の近縁性を指摘したうえで、デリダの思想がマルクス主義の弁証法的思想と内的につながる可能性について確認している。それに対してデリダは、自分自身の差延の思想と、弁証法における矛盾のアイデアとの間に、一定の類似があることを認めたうえで、弁証法の矛盾がアウフヘーベン(同一世への回帰)を前提としているかぎり、差延の概念とは重ならないと強調する。差延の概念は、同一性への回帰を含んだものではなく、限りなく開かれた概念だというのである。

限りなく開かれた概念としての差延は「散種」という言葉と結びつく。デリダは、1972年に「散種」という書物を刊行し、その中で散種という概念について考察している。散種とは、とりあえずは「種子の差延」と定義されるが、その具体的な意味は、「ある解消不可能な、生産的な多様性を標記」するということである。つまり同一性をはみ出す余剰こそが、散種という概念の主要な意味であり、そういうものとして、差延の持っていた多様性の要素をさらに進んで強調したものということになる。

ともあれデリダは、形而上学の批判を通じての西洋哲学の脱構築という目標をマルクス主義者と共有しながら、哲学の方法の基本的な部分については、マルクス主義とは異なった考えをもっていたといえる。単純化して言うと、マルクス主義者が依拠するヘーゲルの弁証法は、同一性の哲学であって、その同一世の粉砕を目的とする自分の思想の立ち位置とはかなりずれていると考えていたようである。

だからデリダは、マルクス主義者から立場を明らかにせよと迫られると、言葉を濁さざるを得ないのだ。立場を明らかにせよというのは、西洋哲学の根本的な批判は、マルクス主義の弁証法的唯物論によってしか行えないことを認めて、自分の哲学も唯物論的弁証法の一変種だと認めよ、という意味である。それに対してデリダは、自分の立場はそんなに単純に割り切れるものではないと反論するわけである。

以上、この対談は、デリダの思想とマルクス主義との関係について考えさせるものだが、その一方で、デリダ自身の思想の発展のようなもの、それは簡単には「差延」から「散種」への進化ということになろうが、そうしたデリダ自身の思想的反省をも含んでいる。デリダにとっては、マルクス主義者との対談を通じて、自己の思想の立ち位置を確認する機会を得られたということになるのではないか。そういうメリットがなければ、もともと融和的な関係にあるとは到底思えないマルクス主義者との対話などする気にはならなかったであろう。






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