正法眼蔵随聞記第三の評釈

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正法眼蔵随門記の第三は、心身放下ということから始まる(第三の一)。心身放下は心身脱落と似た概念である。心身脱落は、身も心も超脱してあらゆる事柄に執着しないという境地を現わした言葉である。それがさとりにつながると言っている。というよりか、さとりの境地そのものである。一方、心身放下は、同じく心と体を捨てる(超脱する)という意味であるが、それがすなわちさとりの境地だとは言っていない。悟りに至るために必要な前提だというような位置づけである。この節の冒頭部分の言葉「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし」とは、心身放下ということは、そういう事情(仏道に入るための前提だということ)を言うのだと説いているのである。

二は、女性も仏道に励むことはできるのでは、という比丘尼の問いに対して道元が答えた言葉を記す。それは「在家の女人は其の身ながら仏法を学して得る事はありとも、出家の人、出家の心なからんは得べからず」云々というもので、女性にかかわる言葉としては中途半端である。これでは在俗の女人が仏道にはげむのはよいが、出家の女性つまり比丘尼が仏道に励むことについては否定的であるように伝わってくる。

三は、真の善人とはいかなる人かについて説く。それは次のような人のことである。「其の人には知られざれども、人のために好き事をなし、乃至未来までも誰れが為と思はざれども、人の為によからん事をしをきなんどするを誠との善人とは云ふなり」。そう言ったうえで、「真実無所得にして、利生の事をなす。即ち吾我を離るる、第一の用心なり」というのである。

四は、仏教者は貧しくあるべきであると説く。「学道の大は最も貧なるべし」。何故なら、「財ある人はまづ瞋恚恥辱の二つの難定めて来るなり・・・貧にして貪ぼらざる時は先づ此の難を免れて安楽自在」だからである。

五は、僧は出世・昇進を望むべきではないと説く。これは宋における見聞を語ったもの。ある僧が、得法悟道して尊敬を集めていたにかかわらず、それに満足できないで、なお僧堂の首坐になることを望んだ。それを師匠は批判して次のように諫めた。「なんぢ既に悟道せること、我れにも越へたり。然あるに首座を望むこと、是れ昇進の為か」。このやりとりを踏まえて道元は次のように言うのである。「昇進を望み物のかしらとなり長老とならんと思ふことをば、古人是を慙ぢしむ。只道を悟らんとのみ思ふて、余事あるべからず」。

六は、仏教者は一切衆生を平等に大切にすべき心得を説く。唐の太宗の故事を引用しながらである。太宗の即位時には粗末な建物に住んでいた。そこで臣下が立派な建物を建てようとすすめたところ、今は農事の多忙な時期であるから民に余計な負担をかけたくないと言ってとりやめさせた。俗人ですらこのように民を大切にするのであるから、まして仏教者は、「如来の家風を受て、一切衆生を一子の如くに憐むべし」というのである。

七は、仏教者は仏祖の行動を見習うべきと説く。仏祖の行動のうちもっとも肝心なのは、仏祖が貧しさをなんとも思っていなかったことである。だから今日の仏教者もそのように振舞わねばならない。「皆よき仏法者と云は、或は布衲衣常乞食なり。禅門をよき宗と云ひ禅僧を他に異なりとする、初の興りはむかし教院律院等に雑居せし時にも、身を捨てゝ貧人なるを以てなり」というのである。

八は、他人のいいところをとって、悪いところをあげつらうなと説く。「只其の人の徳を取て失を取ることなかれ。君子は徳を取て失を取らずと云ふは、此の心ろなり」というのである。

九は、陰徳を修すべきと説く。陰徳とは、隠れた徳、目立たないがすぐれた資質といったような意味である。そんなふうに目立たないが優れた資質こそ大事なのだというのである。

十は、これも仏祖の行動を見習うべきだと説いたもの。「今ま仏祖の道を行ぜんと思はゞ、所期も無く所求も無く所得もなふして、無利に先聖の道を行じ祖祖の行履を行ずべきなり」というのである。

十一は、これも仏教者は貧しくあるべきと重ねて説いたもの。「僧は三衣一鉢の外は財宝をもたず、居処を思はず、衣食を貪らざる間だ、一向に学道すれば分分に皆得益あるなり。其のゆへは貧なるが道に親きなり」というのである。それについて宋の故事をあげる。寵公は自分の財産をことごとく海に投じようとした。それではもったいないから、他の人に与えたらよいではないかという者がいた。そのものに公は、「我已に冤なりと思ひて是れを捨つ。冤としりて何ぞ人に与ふべき」と言って、財物をことごとく海に投じたというのである。俗人ですら財物にこだわらないのであるから、まして僧は財物にこだわらず、貧しくあるべきだと説くのである。

十二は、いかに貧しくとも飢えることはない、この国には親切な人が多く、僧を養ってくれるから、貧しさを憂うることはないと説く。道元は、日本人の信仰心の薄さを批判することが多いのであるが、ことその親切なことには感心していたようである。

十三は、世人が何と言おうと、仏祖の行いを模範とし、それを実践すべきと重ねて説いたもの。「世人の情には順ふべからず。只仏道に依行すべき道理ならば一向に依行すべきなり」というのである。

十四は、老母への報恩について。先に父母への報恩について説いたものの延長である。ここでは、母への報恩よりも仏道のほうを優先すべき旨が一層明瞭に説かれている。曰く、「若し今生を捨てて仏道に入りたらば、老母は設ひ餓死すとも、一子を放るして道に入らしめたる功徳、豈に得道の良縁にあらざらんや」。かなり強い調子の言葉である。






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