差異の理念的総合:ドゥルーズ「差異と反復」を読む

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「差異と反復」の第四章は、「差異の理念的総合」をテーマとする。この奇妙な言葉で表されたテーマについて明確な観念を持つためには、「理念」という言葉の意味をおさえておかねばならない。この理念という言葉をドゥルーズは、まずカント的な意味で使い始めるのだが、途中から、それもいきなり、ドゥルーズ独自の意味合いで使うことになる。理念とは多様体であり、したがって差異からなると言い出すのである。なぜそう言えるのか、について立ち入った説明はない。

カントが言うところの理念とは、かならずしも実在性を要求するものではなかった。実在性は、真理の基準となるもので、実在性をもたない概念は虚偽だとされた。ところで理念は実在性をもたない。だから虚偽だとして廃棄してよいかというと、そうではない。理念はたしかに実在性を要求するものではないが、人間にとって欠かせない役割を果たすものである。たとえば神という理念は、かならずしも実在性を要求するものではないが、しかし人間が神なしですますべきということにはならない。そういう理念のもつ特徴をカントは、統制的原理という概念を使って説明していた。統制的原理というのは、人間に生きるための基準をしめすものである。

ドゥルーズは、唯物論者でありかつ無神論者であるから、理念について語るにあたって神を持ち出したりはしない。だが、カント的な意味での理念は神をモデルにしていたものであるから、神抜きで理念を語ろうとすると、カントとは異なったやり方をとる必要が出てくる。そこでドゥルーズは、理念とは多様体である、というような言い方をして、とりあえずかれなりの理念の内実を示すのである。

多様体とは、ドゥルーズにとっては、同一性の対立概念である。多様体は、同一性を前提とすることなく、それ自身における差異からなっている。同一性を前提しないのであるから、その本質について規定することはできない。本質とは、あるものが何であるかについての定義であるが、その何であるかが、そのものの本質の定義となる。つまりそのものの同一性が本質の定義につながるのである。

だから、理念について、それは何か、と問うことはできない、とドゥルーズは言うのである。かれが理念の本質定義に無関心なことにはそれなりの理由があるのだ。では理念について問えるのは何か。「どのくらい」、「どのように」、「どのような場合に」が多様体について問えることである。同一性としての本質ではなく、差異からなる多様体のあり方について問えるだけだというわけである。

このことについてドゥルーズは次のような言い方をする。「どのような事物をとってみても、それが<理念>を具現しているかぎり、ひとつの多様体である。その場合、<多>さえも多様体であり、<一>すらも多様体である。<一>はひとつの多様体であるということ(それはまた、ベルグソンとフッサールが指摘したことであるが)、そこには<多くの~一つの>ものと、<一つの~多くの>ものというタイプの形容詞からなる(二つの)命題を対等にさせるに十分なものがある。いたるところで、多様体という諸差異が、そして多様体という差異そのものが、図式的で粗雑な対立に取ってかわるのだ。<一>と<多>の御大層な対立のかわりになるものは、多様体という変化性、すなわち差異しかない」(財津理訳)。

理念について一応こうおさえたうえで、ドルーズの議論は差異に移る。差異をめぐるドゥルーズの議論の特徴は、差異を微分とほぼ同一視していることだ。ドゥルーズは数学の概念を哲学に援用するのが好きなのだが、微分を差異と結びつけることには、問題がありそうだ。ドゥルーズは、微分方程式における δx を、差異としてイメージしているのだが、微分というのは、もともとは、差異に注目した概念ではなく、ある曲線の特定の点における傾きを求めるものだ。ということは、全体としての関数の、ある一点における状態を求めるもので、そういう点では、全体として同一的なものの内部に、局所的な差異を求めるものである。だから、微分における差異は、同一性を前提しているのである。差異が同一性の根拠だとするドゥルーズの立場には矛盾するように思えるのだ。

ついで、理念の実在性についての議論が展開される。カント的な意味での理念は、実在性を求めないものであった。実在的な対象を持たないでも、人間にとって必要不可欠なものがある。それが理念だ、とカントは考える。それに対してドゥルーズは、理念にも実在性があると主張するのだ。その主張が成り立つためには、実在性の概念を、カントとは異なったやり方で定義しなおさねばならない。

カントは、可能性を実在性と単純に対立させた。ドゥルーズは、それに加えて、潜在的なものとアクチュアルなものとの対立を持ち込む。そのうえで、理念は潜在的なものであって、したがって、アクチュアルではありえないが、実在的ではありうると主張した。理念はたんなる可能性ではなく、実在性を備えた潜在的なものだと言うのである。「潜在的なものは、実在的なものには対立せず、ただアクチュアルなものに対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る十全な実在性を保持しているのである」。理念とはそのような実在性をともなった潜在的なものだというのが、ドゥルーズの主張の眼目である。

そう言ったからといって、理念というものの内容が判明になるわけでもない。それは何か、についてあいかわらず説明されていないからだ。そのことはドゥルーズも認めていて、次のような言い訳をするほどである。「曖昧なものでしかありえず、また判明であるだけにいっそう曖昧である判明なもの、および、混雑したものでしかありえない、明晰で混雑したもの。判明かつ曖昧であるというのは、<理念>に固有な事態である」。






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