夢中説夢 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第二十七は「夢中説夢」の巻。夢中説夢とは文字通りには「夢の中で夢を説く」という意味だが、これを証中見証と言い換えているので、さとりを夢にたとえているのがわかる。ではなぜさとりを夢にたとえるのか。夢はふつう非現実的なものと思われているので、その夢にさとりをたとえることは、さとりを非現実的なものと考えることになるのではないか。そういう疑問が当然おきるが、道元は、この場合の夢とは「大夢」であって、ふつうに思われているような夢ではない、「夢然なりとあやまるべからず」というのである。

では、大夢とはどんな夢か。それはさとりの境地が現わされたものだということになりそうだが、それでは論点先取りになるおそれがある。そこでもっと論理的な説明が求められるが、それに対して道元は次のように言う、「夢中説夢は諸佛なり」と。大夢すなわち夢の中で夢を説くということは、諸仏のなすところである、というのである。諸仏のなすところゆえに、夢中説夢はさとりのうちにさとりを見ることにつながると言いたいのであろう。

ともあれそのように考えれば、「夢の菩提なる、たれか疑著せん」と言えるわけである。夢がさとりを現わすのは疑えないというのである。「この無上菩提、これ無上菩提なるがゆゑに夢これを夢といふ」。無上のさとりが無上のさとりなるがゆえに、夢を夢というのである。その夢はさとりの内容を現わしている。その夢にはいくつかの種類がある。「中夢あり、夢説あり、説夢あり、夢中あるなり。夢中にあらざれば説夢なし、説夢にあらざれば夢中なし、説夢にあらざれば諸佛なし、夢中にあらざれば諸佛出世し轉妙法輪することなし。その法輪は、唯佛與佛なり、夢中説夢なり。ただまさに夢中説夢に無上菩提衆の諸佛諸祖あるのみなり」。夢の種類の如何にかかわらず、夢の中にさとりが現れることに相違はない。その夢の中の夢に、無上のさとりを得た仏が現れるのである。

ところで、大夢と現実とはどんな関係にあるのか。普通の意味での夢は、現実とは異なったものである。だが大夢は、現実同様に真実を伝える。真実という点では、大夢と現実との間に相違はない。「夢・覺の法、ともに實相なり。覺中の發心修行菩提涅槃あり。夢裏の發心修行菩提涅槃あり。夢・覺おのおの實相なり。大小せず、勝劣せず」。大夢と現実の存在とはともに実相つまり真実を伝えるものだというのである。

そんなわけで、道元によれば、大夢は現実同様真実を伝えるものである。真実とはさとりの内容をいう。さればこそ、「夢・覺もとより如一なり、實相なり」と言えるのである。

道元はまた言う、「釈迦牟尼佛および一切の諸佛諸祖、みな夢中に發心修行し、成等正覺するなり。しかあるゆゑに、而今の裟婆世界の一化の佛道、すなはち夢作なり」。一切諸仏がさとりを得たのは夢の中においてである。だからこの世は夢が作った所産なのである。

それゆえ、「好夢は諸佛なりと證明せらるるなり。常有の如來道あり、百年の夢のみにあらず」。よい夢はさとりを現わしている。そのさとりは常に存在してはたらいている、決して百年に一度の夢のみではない。






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