公安警察の暴走 落日贅言

| コメント(0)
過日NHKが大河原化工機冤罪事件に取材した番組を放送した。この事件は、警視庁公安部が一民間企業を外為法違反容疑で検挙し、その後起訴されたものの、初公判を前にして、検察自ら起訴を取り下げたという極めて異様なものであった。その後、大河原化工機の社長らによる損害賠償訴訟があり、その訴訟の場で公安部の課員がこの案件は捏造だったと証言したことで、その異様さが改めて浮き彫りになった。この件についてNHKの現場の記者が関心を持ち、比較的早い段階から取材をしていたようで、そうした取材内容を紹介しながら、事件の流れを追い、かつ公安調査のあり方に疑問を投げかけるものだった。この放送に先立ち、NHKの記者は雑誌「世界」に、この事件の概要について紹介し、公安部の体質について批判していた。小生はそれを読んでいたので、この事件について自分なりに考えていた。そんな折にこの放送がなされた。そこで小生は、それらをもとにしつつ、日本の公安調査のあり方について、鄙見を述べてみたいと思った次第である。

小生の鄙見披露では、主として二つの点について強調したいと思う。一つは公安調査のやり方とか組織の体質といったもの、もう一つは冤罪が起きた原因についてである。

まず、事件の流れについて整理したい。事件全体は六年にわたるスパンで展開したが、大きな転換点となったのが2020年3月に、警視庁公安部が大河原化工機の幹部三人(社長、役員、技術顧問)を外為法違反容疑で逮捕したことだった。逮捕理由は、当該企業が、経産省の許可を必要とする機械を、無許可で輸出したというものである。その機械は、液体を固体に変えるもの(噴霧乾燥機)であって、粉ミルクやインスタントコーヒーといったものの製造に使われるものである。公安部はその機械が、軍事転用される可能性が高く、したがって輸出規制の対象となるにもかかわらず、輸出許可を受けずに(中国や韓国に)輸出したことが外為法違反になるとして逮捕したのである。

逮捕の前には三年にわたる準備捜査が行われていた。発端は2017年3月頃で、公安部の一係が、大河原化工機が中国に輸出している噴霧乾燥機が軍事転用可能な機械であり、したがって外為法違反になると予断を抱いたことである。単純な噴霧乾燥機では軍事転用可能にはならないが、「定置した状態で内部の滅菌または殺菌ができるもの」は軍事転用可能として輸出規制の対象となる。だがこの規定は極めて曖昧なので、経産省としても、大河原化工機の当該機械が、この定義に当てはまるかどうか自信をもって判断できないとした。そこで公安部は、なんとかこの規定に当てはめることができないかと、経産省と相談をする一方、検察とも打ち合わせを重ねた。経産省は次第に公安部の主張に理解を示す一方、検察のほうは慎重であった。ところが検察も、担当検事が三人目に変わったところで公安部の主張に同意するようになった。かくして関係者の逮捕という事態になったわけである。

社長らは逮捕後十一か月にわたって拘留され、その間に技術顧問が死んだ。死因は癌である。治療のために保釈してほしいという願い出は、証拠隠滅の恐れを理由に拒否された。厳しい取り調べの中で、争点は当該機械が輸出規制の対象となる機能を備えているかどうかということだった。大河原化工機側は、この機械は規制の対象となるような「滅菌または殺菌」の機能は持っておらず、会社としてもそんなものを作る意図はまったくないと主張し続けたが、公安部はいろいろな理屈を弄して、この機械が輸出規制の対象となると主張し、ついにはその主張に基づいて、起訴されるにいたった。ところが、初公判を前にして、検察は起訴を取り下げた。理由は明らかにされていない。会社側は、冤罪が明らかになったとして、逮捕されたことによる損害の賠償請求訴訟を起こした。そしてその裁判の場で、公安の一係員が、あれは捏造だったという証言をしたのである。その証言が物をいったこともあり、一審は会社側が勝利した。それに対して国も都も争う姿勢を見せている。

今の時点で振り返れば、公安部の人間でさえも、これは無理筋の話を強引に押し通したと認めざるを得ないものだ。そこでなぜ、そんなことを敢えてしたのかということが問題になる。とっかかりは、これは事件になると判断した担当係員の執念である。その執念が、経産省や検察を動かして、いわば国が一体となって一民間企業をつぶしにかかったということであろう。それについては、事実の追求ということがないがしろにされ、公安の組織体質が大きくものをいったと思える。公安に限らず警察組織全体、あるいは官僚制全体として、もっとも大きな関心事は組織防衛である。この事件が進行していた当時、公安部は組織防衛にからむ一定の問題意識をもっていた。近年公安部は組織が拡大し、それに見合った仕事をしているというポーズをとる必要を感じていた。この案件は、そうした問題意識にとって格好の事案だった。これをあげることができれば、公安部の存在感が高まる。その結果は公安部の持続可能な組織維持につながる。そうした判断が働いて、事件ありきというような態度をとらせたのであろう。じっさい、大河原化工機はじめ事件の受難者は、公安部や検察の姿勢に、事件ありきの雰囲気を感じ取っている。

公安部の組織が拡大したのは最近のことのようだ。昔は公安総務課のほかに、公安三課、外事二課の体制だったものが、いまでは公安四課、外事四課の体制に拡大している。その背景には、公安関係の仕事が増えていることがある。それは内政面では秘密保護法による取り締まりの強化、外交面では、対中経済安保の要請によるものだ。それに加えて、この事件のピークの時点では対韓関係も悪化していて、韓国への輸出規制の強化という事情もあった。そうした事情のもとで、公安警察部門は拡大され、拡大された分だけ仕事上の手柄を上げる必要が生じていた。その必要の認識が、まず公安部に発破をかける要因となり、検察や経産省も、経済安保を隠れ蓑にして、立件に前のめりになったのではないか。

この事件は、とりあえずは公安警察の暴走として捉えることができるが、大きな目で見ると、日本における冤罪の問題を考えさせる。今現在、袴田事件のやり直し裁判が注目されているが、これについて検察側は、徹底して争う姿勢を見せている。すでに裁判所の判決の中で、新たな証拠にもとづいて再審が言い渡されている(無罪が推定されている)にかかわらず、検察は全く別の証拠なるものを持ちだして、被告の有罪を主張している。終わった裁判を蒸し返そうとしているとしか思えない行為である。文明国の刑事裁判は、一審で無罪となればそれで終わりというのが本来のあり方ではないか。ところが日本では、一審で検察が負ければ、検察に控訴する権利があり、検察はその権利をもれなく行使している。今回の袴田事件の裁判やり直しなどは、本来なら検察側で自分の非を認めて、被告に謝罪するのが筋ではないか。それを検察は、まったく新しい証拠を持ち出して、裁判を一からやり直そうとする姿勢を見せている。

これは非常にグロテスクに見える。検察のこういう姿勢は、国民一人一人の人権を尊重しようという態度ではなく、検察の組織的なメンツを何よりも重んじるものと言わねばならない。それによって、検察は国家権力を体現したものとしての自己の荘厳さをてらっているとしか見えない。今回の大河原化工機の事件にしても、警察や検察には、国民の人権よりも国家意思の貫徹を優先する態度が明らかに見て取れる。日本は権力が国民を屈服させてまでも自己のメンツを保とうとする文化を有しているようである。

なお、大河原化工機の社長はじめ逮捕された人々は、当初は警察に全面的な協力を惜しまなかったが、逮捕後は黙秘に徹したという。これは正しいやり方だったと思う。協力したにも関わらず逮捕したということは、なにがなんでも有罪にしようというつもりなのだろう。そのつもりで自白をとろうとするであろう。安易に尋問に応じれば、「自白」を作られないとも限らない。自白のこわさは、袴田事件も教えてくれている。






コメントする

アーカイブ