花鏡その二(事書十二か条) 世阿弥の能楽論

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「花鏡」事書十二か条の最初は「時節当感事」である。能は音曲をもとにして進むものだが、シテがその声を出すのにタイミング(時節)があるということである。ふつうは橋掛かりで一声を出すが、それにはタイミングがあって、観客の呼吸と合わせるのが肝心である。また、場所についてもコツがある。橋掛かりを三分の一ほど残して一声をだす。舞台に立てば、囃子手の座より舞台を三分の二ほど残して立つ。舞う場合には、舞台の後ろを三分の一ほど残して舞はじめ、舞終わりすべきである。

次に、「序破急事」。これは「風姿花伝」にても強調されていたことであるが、ここでは能の番組構成について序破急を説いている。序は最初の能をいい、急は最後の能をいう。破はそれらに挟まれたものをいうが、曲数の多寡によっては、一番・二番を序とし、それに続くものを破とし、最後のものを急とする場合もある。その関係を次のように説明している。「急と申すは挙句の義なり。その日の名残りなれば、限りの風なり。破と申すは、序を破りて、細やけて、色々を尽くす姿なり。急と申すは、またその破を尽くすところの、名残りの一体なり」。ただし、宴会の席でいきなり能をさせられるような場合もある。そのような席では、一座の具合を見定めながら、構成を考えるべきである。

次に、「知習道事」。これは能の稽古については、上手の師について習えということである。十分に習ったうえでその芸に似せるようにせねばならぬ。単に上滑りに似せるべきではない。この上滑りに真似をすることを、次のように言って、戒めている。「また当時の若為手の芸態風を見るに、転読になることあり。これもまた、習はで似するゆゑなり。二曲より三体に入りて、年来稽古ありて、次第連続に習道あらば、いづれも得手になりて、つづの芸風になるべきことなるを、ただ似せまなびて一旦のことをなすゆゑに、転読になるかと覚えたり」。

次に、「上手之知感事」。これは、真の上手、すなわち名人と呼ばれるに値するものは、舞、はたらきが足りているだけではだめで、そのうえに、心をこめた能をせねばならぬ。舞。はたらきに心が加わったものを、名人の位という。そのへんのことを世阿弥は次のように言っている。「初心より連続に習ひ上がりては、よく為手といはるるまでなり。これは、はや上手に至る位なり。その上に面白き位あれば、はや名人の位なり。その上に無心の感を持つこと、天下の名望を得る位なり」。

次に、「浅深之事」。浅深とは芸風のおおらかさときめ細かさのことをいう。きめ細かくないと面白くないが、しかしあまり細かすぎると能が小さく見える。だから、まずおおらかさを感じさせるように工夫しながら、それにきめ細かさを加えるのがよい。その逆ではない。「総じて能は、大きなる形木より入りたる能は、細かなる方へもゆくべし。小さき形木より育ちたる能は、大きなる方へは、左右なくゆくまじきなり」。

次に、「幽玄之入堺事」。これは花鏡全体にとっての肝と言うべき部分である。物まねより幽玄を重んじる世阿弥の能楽論の神髄が書かれている。まず冒頭で次のように宣言される。「幽玄の風体の事。諸道。諸事において、幽玄なるをもて上果とせり。ことさら当芸においては、幽玄の風体、第一とせり」。ではその幽玄とはなにか。世阿弥は公家の立ち居振る舞いの位の高さを例示して、「ただ美しく柔和なる体、幽玄の本体なり」と言う。美しく柔和なるをもって幽玄とするのである。幽玄には、言葉の幽玄、音曲の幽玄、舞の幽玄、鬼の幽玄があるとする。鬼にも幽玄があるとするのは、どんな姿かたちにも美しさはあるという信念を持っているからだろう。そのことを踏まえて世阿弥は次のように言っている。「見る姿の数々、聞く姿の数々の、おしなめて美しからんをもて、幽玄と知るべし。この理をわれと工夫して、その主になり入るを、幽玄の境に入る者とは申すなり」。





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