哲学者の三つのイメージ:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む

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ドゥルーズの書物「意味の論理学」は34のセリーからなっていて、どのセリーから読んでもよいように書かれている。そこでここでは、第十八のセリーから議論を始めようと思う。このセリーは「哲学者の三つのイメージについて」と題されており、ドゥルーズにとって考えられる限りでの哲学のタイプを現わしている。そのうえで、自分自身がどのタイプの哲学を重視しているかについて語っているのである。

ドゥルーズがあげる哲学者の三つのイメージは、特定の名と結びついている。一つはプラトン、一つはニーチェ、そしてもう一つはディオゲネス(犬儒派)とクリュシッポス(ストア派)である。並べ方に順番をつけるのではなく、単に並列するのは、この三つのタイプの間に優劣を設けないからである(対立は認めるが)。

プラトンは上昇とか高さといったイメージを体現している。高いところから地上を見渡すといったイメージである。高いところはイデアの世界であり、そのイデアを基準として地上の世界の出来事を解釈する。イデアが原型であり、地上で見られる現象はそのコピーという形をとる。これは、あの有名な洞窟の比喩とつながっている。洞窟の中にいるものには見えなかったものが、洞窟の外部にいるものには見える。それと同じように、地上にいるものには見えなかったものが、天空の高みからは見える。こうしたプラトンの見方は西洋の哲学の基本的な枠組みを提供していた。西洋哲学の伝統においては、プラトンこそが元祖なのである。

このことをドゥルーズは次のように表現している。「学問的であると同時に、一般の民衆が考えてもいるような哲学者というもののイメージは、プラトンの哲学によって固定されてしまっているように思われる。それは、洞窟から出てきて、自分を高めていき、自分を高めるにつれて自分を純粋なものにしていく、上昇する存在というイメージである・・・高さは、まさにプラトン的なオリエントである」(岡田弘、宇波彰訳)。

そのうえでドゥルーズは次のように言ってプラトンの哲学にかれなりの批判を加える。「哲学と病気を比較するわけにはいかないだろうが、いわゆる哲学的な病気がある。理想主義(観念論)はプラトン哲学の先天的な病気であり、上昇・下降の運動のある、哲学そのものの躁鬱病的な形態である」。

プラトンの上昇・高さの哲学に対してニーチェは深層の哲学者である。ニーチェは深層・深さを、プラトンの批判を通じて打ち出した。その批判の仕方は「悲劇の誕生」の中で展開されたアポロ的なものとディオニュソス的なものとの対立というやり方をとったわけだが、ドゥルーズはそれをもっと哲学的に一般化して、プラトン哲学とソクラテス以前の哲学者との対立という形に読み替えている。いずれにしても、プラトンの高さと上昇の哲学に対立させるというやり方で、深さと深層の哲学を打ち出したのである。

ソクラテス以前の深層の哲学の特徴について、ドゥルーズは例によって比喩的な表現で説明している。「ソクラテス以前の哲学者は洞窟から外へ出ず、逆に人々が洞窟にかかわらず、そこに入りたがらないのだと考える。彼がテセウスを非難するのは糸のことについてである」。糸は洞窟から出るための用意である。それは洞窟をおどろおどろした、避けるべきものと考えるためであって、洞窟に快適さを感じている彼にとっては無用のものである。だから、「君はわれわれをその糸で救うつもりか。お願いだからそれで首をつってくれ!」と叫ぶのである。

この深層という領域が、フロイトの無意識とつながっていることはやがておいおいと(或いは別のセリーで)言及される。無意識は身体ともつながる。だから深層とは身体の底でおこるできごとの領域である。

高さと深さのほかにドゥルーズは表層というイメージを打ち出す。その表層を思考した哲学者はディオゲネスであり、ストア派のクリュシッポスであった。この表層という領域は、高さと深さの中間のようにも受け取れるが、そんなに単純なものではなく、それ固有の特徴とか働きを持っている。この表層については、ニーチェもすでに取り上げていた。ドゥルーズによれば、ニーチェが深さを再発見したのは、表層を征服することによってだった。

この表層という領域については、ドゥルーズも重視している。かれはストア派の哲学者を非常に高く評価し、自分の哲学の模範のようなものとして取り上げている。だが、表層を特権視するわけではない。人間の世界解釈の基準点として、高さ・深さ・表層の三つをあげ、それらを絡み合わせることでよりましな世界把握ができると考えているようである。

ともあれ表層とは、哲学的には何を意味するか。それについてドゥルーズは、表層の哲学をストア派で代表させたうえで次のように言う。「高さと深さに対抗し、高さと深さから独立した表層の自立~これがソクラテス以前の哲学とプラトンとに対立する、ストア派の哲学の重要な発見である。それは高いイデアにも、深い身体にも還元されない、非物体的なできごと、意味もしくは効果の発見である。起ること、語られることは、すべて表層で起こり、語られる。おそらく表層は、ナンセンスである深さ・高さに劣らず探求されるべきものであり、未知なるものである」。

ここで、できごととか意味とかいう言葉が出てくるが、これらの言葉が表層の哲学の肝の部分になるのである。

ともあれ表層の哲学は、哲学者を表層の上をはい回るシラミのような存在に変化させるとドゥルーズは言う。「哲学者はもはや洞窟の存在ではなく、プラトンの魂や鳥でもなく、表層の平らな動物、ダニ・シラミである」と言うのである。そうした表層の哲学をどう呼べばよいのか。そう自問しながらドゥルーズは次のように言う。「哲学の新しい仕事を、それがプラトンの回心にも、ソクラテス以前の転倒にも対立する限りにおいて、どう呼べばよいのか。おそらく、倒錯と呼ぶのがよいだろう」。

かくして、哲学は表層を中心点として、それとのかかわりのなかで高さと深さを論じるようなスタンスをとるようになる。高さ・深さ・表層の三つの概念セットは、先ほども触れたように、この書物のいたるところで援用されるのである。






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