伝衣 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第三十二は「伝衣」の巻。伝衣とは仏衣の伝承という意味だが、同時に仏法の正伝を意味する。仏衣が仏法の象徴として捉えられているのである。その仏衣は、ひとつには釈迦牟尼以来代々の仏祖の間で直接伝えられてきたものと考えられる一方で、普通の庶民が着るべきものとも思念される。前者は国の宝といわれ、後者は修行者を導く働きを持つと考えられる。

巻の前半では、主に仏祖の間で正伝されてきた仏衣について説かれ、後半で普通の修行者が着るべき袈裟について説かれる。巻の冒頭は次の如くである。「佛佛正傳の衣法、まさに震旦に正傳することは、少林の高祖のみなり。高祖はすなはち釋牟尼佛より第二十八代の師なり。西天二十八代、嫡嫡あひつたはれ、震旦に六代、まのあたりに正傳す。西天東地都盧三十三代なり。第三十三代の、大鑑禪師、この衣法を黄梅の夜半に正傳し、生前護持しきたる。いまなほ曹谿山寶林寺に安置せり」。すなわち釈迦牟尼以来、一つの仏衣が仏祖たちの間で連綿と伝わってきたというのである。これは単に仏衣が正伝されてきたというにとどまらず、仏法が正伝されてきたということでもある。そんなわけだから、「この佛衣くににたもてるは、ことにすぐれたる大寶なり」ということになる。仏衣すなわち袈裟は、舎利よりも尊いのである。

とはいっても、そこで言われる袈裟は、なかば象徴的な意味を持たされており、じっさいに仏祖から仏祖へと伝わったある特定の袈裟をさすわけではない。仏法の象徴としての袈裟なのである。それゆえにこそ、どんな人にも袈裟の功徳が及ぶと言える。

巻の後半では、普通の修行者にとっての仏衣すなわち袈裟の功徳が説かれるが、それは仏法を象徴的に体現したものとしての袈裟の功徳なのである。その袈裟は単に飾っておくだけではなく、着用せねばならぬ。「受持するといふは、着用するなり。いたづらにたたみもたらんずるにあらざるなり」。

袈裟を着用する功徳は次のように説かれる。「袈裟の力を念じ、袈裟の力に依らば、尋いで非心を生じ、還得清淨ならん。若し人有つて兵陣に在らんに、此の袈裟の少分を持ちて、恭敬尊重せん、當に解脱を得べし」。袈裟を着用すれば解脱が得られるというのである。そんなわけであるから、「袈裟を得するは佛標幟を得するなり。このゆゑに、佛如來の袈裟を受持せざる、いまだあらず。袈裟を受持せしともがらの作佛せざる、あらざるなり」。袈裟は仏法を標示しているのである。

袈裟は仏法の象徴であるから、その物理的な材質は問わない。そのことを、「これ布にあらず、これ絹にあらず、これ帛にあらず」という。それゆえ袈裟の材質にこだわるのは、仏法を誹謗するのである。

仏衣とは要するに、仏法修行の意思を示すものなのである。仏法修行への意思を示すことが、仏法を会得する王道なのであり、その意思を袈裟を着ることで示すのである。こういう考えには、道元の自力信仰の決意が込められている。

追録の部分で道元は次のように言っている。「いかにしてかはわれ不肖なりといふとも、佛法の正嫡を正傳して、土の衆生をあはれむに、佛佛正傳の衣法を見聞せしめん」。これは道元自身が、仏法を正伝して、衆生に仏衣と仏法とを説き聞かせようという決意の表明である。

また、巻の最後には次のような決意の言葉がある。「佛子とならんは、天上人間、國王百官をとはず、在家出家、奴婢畜生を論ぜず、佛戒を受得し袈裟を正傳すべし。まさに佛位に正入する直道なり」。





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