石井裕也「あぜ道のダンディ」 見栄っ張りな中年男の涙ぐましい生き方

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石井裕也の2011年の映画「あぜ道のダンディ」は、金がないのに見栄っ張りな中年男の涙ぐましい生き方を描いた作品。妻に死なれ、男手で二人の子供を育ててきたはいいが、子供とのコミュニケーションがうまくとれないことに悩む。唯一幼馴染の友人を相手にうさばらしをするのが生きがいになっている。二人の子供は年子らしく、浪人中の長男と高校三年生の長女が同時に大学入学をめざしている。父親は金の自信がないのだが、金はあるから心配するなと子供らに見栄をはる。

そんな矢先、意に痛みを覚えた父親(光石研)は、妻と症状が似ていることから胃がんではないかと思い込む。そこで、友人(田口トモロヲ)に向かって、俺が死んだら子供らの面倒を見てくれとたのみ、また、近所の写真屋で葬式用の遺影の撮影をしたりする。だが、検査の結果胃がんではないとわかる。ストレスで胃潰瘍になったのだろうというのだ。たしかにかれにはストレスが多い。

かれのストレスの原因は、子供たちの前で、父親らしくまた男らしく振る舞いたいという強迫観念があるからだ。男らしいとはダンディとして振る舞うことだと父親も友人も思っている。すくなくとも子供らの前ではダンディでありたいのだ。ところが現実の自分は、ダンディとは無縁なしょぼい男である。そんな父親を、二人の子供らは煙たがりながらも気にはしているのだ。長男などは、父親に負担をかけないように、アルバイトをして学資をためている。長女のほうも父親に気を使っている。

そんなわけで、父親はいい子供をもったことで、前向きに生きようという気持ちになれる。気持ちだけでは生きてはいけないが、しかし気持ちが砕けてしまっては、どうしようもなくなる。気持ちだけは前向きに生きていこう。そんなメッセージを残して映画は終わる。

この映画の肝は、ぎりぎりの状況に置かれながら、必死になって脱落から逃れようと頑張る人間の意地を描いているところにある。負け組たることに甘んじないという意地が、この映画の中の主人公たちにはある。





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