意味について:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む

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ジル・ドゥルーズの書物「意味の論理学」は、タイトル通り意味を論理学的に解明する試みである。そこで意味という言葉と論理学との関連が問題になる。論理学とは、伝統的な意味では、思考の法則とか推論の形式にかんする学問である。思考や推論は通常存在するものについてなされるので、論理学は存在についての判断を取り扱うものだと言われる。存在についての判断が論理学の対象といえるわけである。アリストテレスはそのように論理学を定義しており、それが西洋の論理学の考え方であった。そうした意味合いの論理学と意味との関係について論じるのがこの書物の目的なのであろうか。

意味という言葉は非常に多義的な内容を持っている。その内容をもっとも大雑把に分類すると、存在するものの意味と、かならずしも存在するわけではないものの意味とに別れる。かならずしも存在しないものとは、たとえば四角い円とか翼の生えた馬といったものである。四角い円は、事実上存在しないばかりか論理的にも存在しようがない(円の定義に反するからである)。一方翼の生えた馬は、事実上は存在しないが論理的には成立しうる。こうした必ずしも存在しないものについても、意味は成り立つわけである。

意味についてドゥルーズは、命題と関連付けて説明している。命題とは判断の内容を表現したものであり、言語を通じてなされる。したがって意味はすこぶる言語学とかかわる。意味が言葉によって担われる以上当然のことである。

命題には真の命題と偽の命題がある。真の命題は、たとえば馬は人間より早く走るといったものであり、偽の命題は、馬には翼があるといったものである。偽の命題は、事実上は成り立たないが、したがって存在しないものについての言明であるが、しかし意味は持っている。意味はしたがって真・偽を超えているとみなされる(これをドゥルーズは「超存在」と呼んでいる)。

以上を前提として、意味の担い手である命題についての分析がなされる。ドゥルーズは命題を、その作用にもとづいて三つのタイプに分類する。第一の作用は指示作用である。これは、「命題と事物の外的な状態との関係」である。命題の内容が事物の外的な状態と一致していることを含んでいる。したがって指示作用は真・偽の区別と深い関係がある。「論理的に言うならば、指示作用の基準と要素は真実と虚偽である。真実とは、指示作用が事物の状態によって効果的に行われること、指示語が実現され、適切なイマージュが選択されることを意味する。(一方)虚偽とは、選択されたイマージュの欠如、または、語と結合できるイマージュの生産が徹底して不可能であることによって、指示作用が行われないことである」(岡田、宇波訳)。

命題の第二の作用は表出作用である。これは、命題と表現する主体との関係にかかわる作用である。したがって語る主体が問題となる。ドゥルーズは言う、「固有名詞が特権的な指示語であるのと同様に、私は、基本的な表出するものである。私に依存しているのは、単にその他の表出するものだけでなく、指示語の全体が私に関係する」。表出作用の指示作用に対する関係は、私の(指示する)対象に対する関係を現わす。

命題の第三の作用は意味作用である。意味作用とは、ソシュールの言語学から転用された概念で、意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)との関係をいう。それは純粋な意味にかかわるものだから、必ずしも存在を前提としない。存在しないものについても、意味作用は発生する。かといって、意味作用のないものは、真でも偽でもありえない。真・偽が問題となる場合には、意味作用がかならず働いている。

以上三つの作用は互いに絡み合いひきずりあって円環の運動をなしている。それをドゥルーズは「命題の円」と呼んでいる。この命題の円に意味はどうかかわるのか。円の運動の中に埋めこまれるという関係にあるのか、それとも円を構成する三つの作用とは別に、第四の次元として考えるべきか。

ドゥルーズは意味を、「命題の第四の次元」であるとする。それはどのような内容なのか。ドゥルーズはストア派の哲学者にならって、これを「できごと」と関連付ける。できごとといきなり言われても、具体的に何のことか、俄にはイメージできない。そのイメージするのがむつかしいできごとに意味を結びつけるわけなのだが、それをドゥルーズはとりあえず次のように説明する。「意味とは命題の表現されたもの、事物の表層にあるこの非物体的なもの、還元不能の複雑な実体、命題のなかで主張し、或いは存続するできごとである・・・おそらく意味は<中性的>であり、特殊的なものと一般的なものに対して、個別的なものと普遍的なものに対して、人格的なものと非人格的なものに対して、いずれも無関係である。意味は、それらとは性質がことなるであろう」。

言っていることの意味は、意味とは指示作用、表出作用、意味作用がそれぞれ成立するための条件だということだろう。そのようなものとして、命題の特定の作用とは無関係に、それ自体が中性的な働きとして作用するということなのだろう。

意味が中性的なということは、意味がそれを表現する命題の外側では存在しないということである。「意味は存在するとはいえず、単に主張されるとか存続するとしか言えないのはこのためである」。

ドゥルーズは、「できごと」が意味そのものである、とも言っているのだが、できごとは表層と強く結びついている。そうだとすれば、意味は、高さや深さではなく、したがってプラトンの哲学や深層の哲学ではなく、表層の哲学と結びつくことになる。表層の哲学を標榜するドゥルーズにとって、意味は中核的な概念なのである。意味を解明すること、したがって意味の論理学を展開すること、それが表層の哲学を語ることになるであろう。そんなわけで、意味という言葉は、前稿でとりあげた高さ、深さ、表層の概念セットと同じく、この書物のいたるところで援用されるであろう。








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