道得 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第三十三は「道得」の巻。この巻を理解するためには「道得」という言葉の意味を分かっていなければならない。「道」は「言う」を意味する。だから「道得」は「言うことができる」という意味である。何を言うかといえば、真理をである。真理を言うことができる、それが「道得」である。これを名詞形にすると、真理を言うこと、真理の表現ということになる。

この巻は次の言葉で始まる。「諸佛諸祖は道得なり。このゆゑに、佛祖の佛祖を選するには、かならず道得也未と問取するなり」。これは、諸々の仏祖にはそれぞれの真理の表現がある、だから仏祖を見分けるには何と言ったのかと問わねばならない、という意味である。道得には長い修行を要す。「その道得は、他人にしたがひてうるにあらず、わがちからの能にあらず、ただまさに佛祖の究辨あれば、佛祖の道得あるなり。かの道得のなかに、むかしも修行し證究す、いまも功夫し辨道す。佛祖の佛祖を功夫して、佛祖の道得を辨肯するとき、この道得、おのづから三年、八年、三十年、四十年の功夫となりて、盡力道得するなり」。時間をかけてひたすら工夫することによって、道得するのである。

道得は一度限りのことではない。より高い段階に向かって進歩する。そのことを次のように言っている。「この功夫の把定の、月ふかく年おほくかさなりて、さらに從來の年月の功夫を脱落するなり。脱落せんとするとき、皮肉骨髓おなじく脱落を辨肯す、国土山河ともに脱落を辨肯するなり」。従来の境地を脱落して、新たな高みに達するということであろう。

道得は、真理を言い得るというのみではない。言い得ないことについては言い得ないといわねばならない。「しかあれども、この道得を道得するとき、不道得を不道するなり。道得に道得すると認得せるも、いまだ不道得底を不道得底と證究せざるは、なほ佛祖の面目にあらず、佛祖の骨髓にあらず」。

次に、趙州眞際大師の言葉が紹介される。「你若し一生不離叢林なれば、兀坐不道ならんこと十年五載すとも、ひとの你を唖漢と喚作すること無からん、已後には佛も也た你に及ばじ」。これは一生叢林の中で座禅して言葉を発しないとしても、你を唖者だと言うものはない、ということである。つまり道得のための具体的な修行を座禅に見ているわけである。「兀坐は一生、二生なり。一時、二時にあらず。兀坐して不道なる十年五載あれば、佛もなんぢをないがしろにせんことあるべからず」。

ついで、雪峰の眞覺大師とある僧とのやりとりが紹介される。これは山中に庵を結んで退隠生活をしている僧を雪峰が訪ねたときのことである。その前に他の僧がその僧を訪ねて、これは変人だと思って、その旨を雪峰に話したところ、雪峰は自分の目で確かめたいと答えたのだった。そこで自分自身出かけて行って、その僧に「すでに道得したか、したのなら汝のそのぼさぼさ頭を剃らないでやろう」と言った。すると僧は、ぼさぼさ頭を洗って雪峰のところに戻ってきた。雪峰はその僧のぼさぼさ頭を剃ったのであった。こうしたやりとりについて、その意味合いを道元なりに解釈する。僧については、「庵主まことあるによりて、道得に助發せらるるに茫然ならざるなり」といい、雪峰については、「ときに雪峰もしその人にあらずは、剃刀を放下して呵呵大咲せん。しかあれども、雪峰そのちからあり、その人なるによりて、すなはち庵主のかみをそる」という。そのうえで、「まことにこれ雪峰と庵主と、唯佛與佛にあらずよりは、かくのごとくならじ」と言っている。つまり雪峰と庵の僧は、仏祖同士の間柄だというのである。






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