できごとについて:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む

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西洋のデカルト以降の近代哲学は、哲学の端緒というか出発点のようなものを想定し、そこから議論を展開するという方法をとってきた。デカルトの場合、それは「我思う」という意識の働きであり、その意識の働きが我の実在性を証明すると考えた。カントの場合、原初的な感覚が端緒であり、その感覚を知性が料理することで知覚となり、さらには概念にまで高まると考えた。フッサールの場合、意識の相関者として与えられた現象を端緒とし、その現象を虚心に分析することから概念的な知が生まれると考えた。ベルグソンは意識の直接与件としての知覚を端緒とし、それを分析することで人間の世界観を基礎づけた。そのような哲学的な端緒をドゥルーズは「できごと」に求めた。ドゥルーズの哲学は「できごと」を端緒にして展開するのである。

だが、それにしては、この「できごと」の取り扱いがやや唐突の観を与える。ドゥルーズは、「差異と反復」までの業績のなかで西洋の伝統哲学を解体し、そのうえで、全く新しい哲学を創建しようとしたのであったが、その場合に、「差異と反復」によって達成された成果を最大限利用するという方法をとるのが自然と思われる。ところが「できごと」という概念は、「差異と反復」とはほとんど接点を持たず、いきなり提示されたという印象を与える。すくなくとも言葉の使い方という点では、「できごと」という言葉は「差異と反復」の中では、有意的には使われていない。それゆえ読者は、「できごと」を端緒として哲学を解明しようと意気込むこの「意味の論理学」が、「差異と反復」との間に断絶を抱えているのではないかと思わされる。

とはいえ、完全に断絶しているわけでもなさそうだ。「差異と反復」のテーマは、同一性にかわって差異を強調することによって、同一性を基礎とする伝統思想に風穴をあけるといったものだったが、「できごと」の概念にもそうした問題意識は感じられる。すくなくとも、さまざまなできごとは、因果関係をはじめとする形式論理的な関係とは無縁で、相互に差異によって隔てられている。その点では、「差異と反復」との連続性を感じさせもする。だがその連続性のようなものに落とし穴が潜んでいる。その落とし穴を十分意識しないと、この「できごと」というものを正確に捉えることはできない。

そこで、この「できごと」という概念を、いったん分解したうえで、その正体を確かめておく必要がありそうである。まずできごとは個人の意識とは別の次元のものである。その点は、デカルト以降ベルグソンまでの哲学の端緒の設定をめぐる議論とは根本的に異なっている。デカルト以降ベルグソンまでの西洋哲学は、人間の意識の中に哲学の端緒を設定していた。つまり、観念論的な設定にこだわっていたのである。ここで観念論と呼ぶのは、人間の意識をすべての根拠とするような見方をさす。その観念論的な見方とは全く異なった見方をドゥルーズはとるのである。というのもドゥルーズは或る種の唯物論の立場に立っており、その立場が、人間の意識とは別なところに、哲学の端緒を求めさせるのである。

わかりやすく言えば、どういうことになるのか。ドゥーズは、できごとという言葉の意味を明確に定義しているわけではないが、一応定義らしいものはしている。それは、できごとは「非人称的・前個体的・中性的であって、一般的でも個別的でもない」という規定の仕方である。非人称的・前個体的・中性的というのは、個人の意識とは別の次元に属するという意味であり、一般的でも個別的でもないというのは、概念とは別の次元に属し、必然的とは無縁で、偶然性によって生起するということだろう。その全く偶然のできごとが、人間とどのようなかかわりを持つのか。

できごとは起るものだとドゥルーズは言う。どこに起るのか、人間においてである。この場合、起ることの主体はできごとであり、人間はそのできごとが起こる場所である。できごとが人間において起るとは、人間の側からすれば、自分自身が、できごとが起こるにふさわしい者になることである。その場合、できごとと人間との関係は、因果関係ではない。できごとが原因であって、人間はその結果ということではない。だが、この二つは切り離しがたく結びついている。その結びつきをドゥルーズは「運命的」と言っている。できごとが人間において起るのは、運命の仕業なのである。

このことをストア派の哲学者たちはよく理解していたとドゥルーズは言う。「ストア派の思想で最も大胆なもののひとつは、因果関係の切断である」としたうえで、ストア学派は「運命を肯定するが、必然性を否定する」といって、人間はできごととの間に運命的な関係を持っていると主張するのである。ここでいう「因果関係の切断」は、因果関係の否定ではない。人間と出来事との関係には、一定の因果関係が認められる場合があるのは否定できない。結果としてのできごとが、身体的・物理的原因と因果関係をもつことはある。しかし、「その関係に必然性はなく、表現に属している」(岡田、宇波訳)。

表現という言葉は、それ自体プロブレマティックなものだが、ここではできごとが自己を実現するありようとでも受け止めておきたい。「そこで問題は」とドゥルーズは続ける。「できごと相互のこうした表現的関係は何かということになる。できごとのあいだには、沈黙した両立性と非両立性、結合と分離の外在的関係が作られるように見えるが、この関係はきわめて見えにくい。ひとつのできごとは、他のできごとと、何によって両立したり、両立しなかったりするのか。われわれは因果関係を利用することはできない。なぜならば、結果相互の関係が重要だからである」。肝心なのは、「原因から結果への関係ではなく、因果的でない対応関係の全体である」。

要するに、できごとはその発生においても、できごと相互の関係においても、必然性とは無縁な、偶然性の作用する関係に置かれているというのである。偶然性とは、同一性を拒否して、差異をそのままに表現するものである。その偶然性にできごとを立脚させるドゥルーズの姿勢には、読者は「差異と反復」との連続性を認めることができよう。

さて、できごとのなかでも人間にとってもっとも重要と思われるものは「死」であろう。できごととしての死は、「非人称的・前個体的・中性的であって、一般的でも個別的でもない」はずである。つまり個々の人間にとっては外在的な関係にある。しかし他方で、我々人間は、自分自身ができごとにふさわしいものにならねばならぬということもある。これを死に適用すると、われわれは死というできごとにふさわしくならねばならぬということを意味する。人間は死ぬことに相応しくならねばならぬのだ。死に相応しい存在、死が似合う存在、それがドゥルーズによる人間の新しい定義である。






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