マカール・イヴァーノヴィチ・ゴルゴルーキー ドストエフスキー「未成年」を読む

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マカール・イヴァーノヴィチ・ゴルゴルーキーは、ロシア人の信仰のあり方の一つの典型を示している。ドストエフスキーはこの小説の中で、マカール・イヴァーノヴィチにたいして大きな役割は果たさせていないが、しかし彼のちょっとした言葉の端々から、ロシアの民衆の信仰心が伝わってくるように書いている。マカールは、農奴の出身であり、したがってロシアの最下層の民衆を代表する人間である。その最下層のロシア人にとってキリスト教信仰とはどんな意味を持つのか。そのことを考えさせるようにドストエフスキーは書いているのである。

マカール・イヴァーノヴィチは、20年ばかりロシアの各地を放浪した挙句に、ペテルブルグのヴェルシーロフのもとに身を寄せた。自分の最期が近いのをさとって、死に場所を求めてきたのである。じっさいマカール老人は、ヴェルシーロフの家で死ぬのである。死ぬ前にかれは、アルカージーにさまざまなことを語り、アルカージーに一定の影響を与える。だが、たいした影響ではない。この二人は生きる世界が違うから、アルカージーにはロシアの下層社会の信仰が、すんなりとは受け入れられないのだ。

マカール老人は、分離派の信徒ということになっている。ロシア正教で分離派は古儀式派とも呼ばれ、教会組織を持たず純粋な信仰だけで結びついた集団である。自分に試練を与えるために、進んで苦痛を求めるのが特徴だとされる。その試練のなかに巡礼が含まれるが、巡礼といっても単に各地を放浪して回るだけのことである。マカール老人も、20年間巡礼の旅と称してロシア各地を放浪したのだった。

マカール・イヴァーノヴィチが放浪するきっかけは、ヴェルシーロフが与えたことになっている。ヴェルシーロフは、マカール・イヴァーノヴィチから若い妻ソーニャを奪い、マカールにはそこそこの金を持たせて、巡礼の旅に出るよううながしたのであった。だが、マカール自身分離派教徒として放浪へのあこがれがあったので、半ば喜んで旅に出たのであった。かれは、ヴェルシーロフからもらった金を自分で使うことはなく、ソーニャへの遺産としてとっておいた。自分自身は乞食の境遇に甘んじたのである。

マカール老人が死の床を求めてヴェルシーロフの家にやってきたのは、アルカージーが長い昏睡から覚める頃合いだった。アルカージーは、昏睡から目覚めようというときに、「主よ、イエス・キリストよ、われらが神よ、われらを憐れみたまえ」という言葉を聞いた。マカール老人のささやきである。その言葉から、分離派の信仰の一端がうかがわれる。

マカール老人の風貌は、「髪が真っ白で、ふさふさと銀のように白いあごひげを生やした一人の老人」といった具合だったが、その笑い顔がアルカージーの心にひびいた。アルカージーは、笑いを下卑たものと考えていたのだが、マカール老司の笑い顔は、赤ん坊のそれのように純粋無垢に思えたのだ。

そこで、アルカージーが人間の笑い顔をどのように受け取っていたかを見ておきたい。アルカージーは言う、「人が笑うと、たいていは見ていていやになるものである。笑い顔にはもっとも多くなにか下卑たもの、笑っている本人の品位をおとすようなものがむき出しにされる」(工藤精一郎訳)。なぜかというと、「笑いはなによりも誠意を要求する。だが人々に誠意などあろうか。笑いは悪意のないことを要求する。ところが人々が笑うのはほとんど悪意からである。誠意に満ちた悪意のない笑い~それは陽気である。ところが今日の人々のどこに陽気があろうか」、というわけだからである。

笑いの中で唯一純粋なのは赤ん坊の笑いである。「赤ん坊だけが完全に美しく笑うことができる」。その赤ん坊のように美しい笑いを、アルカージーはマカール老人の顔に認めたのである。

そのマカール老人は、自分の死期をさとりながら、自分自身の一生に満足している。満足しているから、気持ちよく死んでいくことができる。それゆえ、次のように言うことができるのである。「年寄りはあとくされなく去らにゃいかんのだよ。おまけに、不平を言ったり、不服に思ったりして死を迎えたら、それこそ大きな罪というものだよ。だが、心の楽しみから生活を愛したのなら、きっと、年寄りでも、神はお許しくださるだろうさ。人間がすべてのことにわたって、これは罪だ、あれは罪じゃないと、何もかも知るのはむつかしいことだ。そこには人間の知恵の及ばない秘密があるのだよ。年寄りはどんなときにでも満足して、自分の知恵が咲き匂っているあいだに、感謝しながら美しく死んでいかにゃならんのだよ。毎日々々を満足しきって、最後の息を吐きながら、喜んで、麦の穂がおちるように、自分の秘密を補って、去っていくのだよ」。

マカール老人のこの言葉には、ロシアの民衆の世界観が反映されていると考えてよいのだろう。それを単純化して言うと、諦念による心の安寧といえようか。マカール老人はほかにもアルカージーの興味を引く話をする。その中には、自分の犯した罪を償う商人の話も出てくる。その商人もマカール老人同様、最後には放浪の旅に出る。その商人にとっての放浪の旅は、マカール老人の場合と同様、死を迎える準備だった。

こうしてみるとドストエフスキーは、ロシアの民衆の信仰は、美しい死を迎えるための心の準備をもたらしてくれるものととらえていたようである。その信仰は民衆のためのものであって、ヴェルシーロフのような貴族を自認するものには異端でしかない。ヴェルシーロフは、マカール老人がソフィアのために残した聖像を、無残にも打ち割ってしまうのだ。そこに貴族と民衆の間に深い分断があることを感じさせる。ヴェルシーロフは、ロシア人である前に、貴族としての矜持にこだわるのである。

そんなわけで、マカール老人の存在感は、「悪霊」におけるチホンの存在感とは違ったものである。チホンは貴族のスタヴローギンにも対等に接することができた。マカール老人は、ヴェルシーロフやアルカージーの前では、独り言をいうだけである。





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