仏教 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第三十四は「仏教」の巻。仏教という言葉を道元は、ここでは三乗十二分教という形をとった具体的な教義の体系という意味で使っている。それを巻の冒頭で次のように表現している。「諸佛の道現成、これ佛教なり」。諸々の仏の言葉が実現したもの、それが仏教だというのである。諸々の言葉が実現したものは、三乗十二分教というかたちで表されている。だから仏道を学ばんとするものは、三乗十二分教を学ばなければならぬ。

道元といえば、座禅を第一とし、経典は二の次にするといったイメージが強いので、そのかれが三乗十二分教を重んじるのは自家撞着のように聞こえる。しかし、この巻の中では、かれが三乗十二分教を重んじているのは明らかである。経典を二の次にする考え方は、「経外別伝」という言葉に集約されるが、道元はこうした考えを難じている。

そんなわけで、道元はまず教外別伝の批判から始める。教外別伝というのは、上乗一心の法が諸仏の間に正伝されることを重んじるものだ。正伝は、仏から仏へと直接伝えられるもので、経典などを介するわけではない。それを直指人心という。そういう考えを道元は、「この道取、いまだ佛法の家業にあらず」といって批判するのである。「ただ一心を正傳して、佛教を正傳せずといふは、佛法をしらざるなり」というのである。

そのうえで、「一心のほかに佛教ありといふ、なんぢが一心、いまだ一心ならず。佛教のほかに一心ありといふ、なんぢが佛教いまだ佛教ならざらん」と言う。一心と仏教を別物とし、仏教を遠ざけて一心に執着するのはまちがっている。一心と仏教とは異なるものではないというのである。しかして仏教とは、三乗十二分教のことをいう。十二分教は九分教ともいわれる。

三乗十二分教については、玄沙が不思議なことを言っている。「三乘十二分教總不要なり」と言うのである。これは文字通りには、三乗十二分教は総じて不要だという意味だが、道元はそうはとらない。「總不要なるがゆゑに三乘十二分教なり。三乘十二分教なるがゆゑに三乘十二分教にあらず。このゆゑに、三乘十二分教、總不要と道取するなり」という。わかりにくい言い方だが、要するに三乗十二分教は総不要なるがゆえに、有用だと言っているのである。

道元自身は、そんな回りくどい言い方はしない。ずばり三乗十二分経の功徳を強調する。

以下、三乗十二分教ないし九分教について詳説する。三乗とは、一に声聞乗、二に縁覚乗、三に菩薩乗をいう。大乗仏教は声聞乗と縁覚乗を軽視するが、これらにも釈迦の教えは込められていると道元は言うのである。また、十二分教とは、十二部経ともいい、仏典を十二種類に区分したものである。一方、九分教は仏典を違う基準にしたがって九種類に区分したものである。

十二分教は仏の言葉が実現したものであるから、仏教が世に広まっているときにこそ聞こえる。それを道元は次のように言う。「十二部經の名、きくことまれなり。佛法のよのなかにひろまれるときこれをきく、佛法すでに滅するときはきかず。佛法いまだひろまらざるとき、またきかず。ひさしく善根をうゑて佛をみたてまつるべきもの、これをきく。すでにきくものは、ひさしからずして阿耨多羅三藐三菩提をうべきなり」。先の玄沙の十二分教総不要ということばは、このことにかかわっていると考えられる。仏法が世に広まっているときには、十二分教はすでに実現しているから総不要な状態であるが、しかし、それは十二分教がすでに行われているからであって、行われている範囲内で、意義を発揮しているのである。

以上を踏まえて、この巻は次のような言葉で結ばれる。「おほよそしるべし、三乘十二分教等は、佛教の眼睛なり。これを開眼せざらんもの、いかでか佛教の兒孫ならん。これを拈來せざらんもの、いかでか佛教の正眼を單傳せん。正法眼藏を體達せざるは、七佛の法嗣にあらざるなり」。






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