アメリカ映画「スリー・ビルボード」 アメリカ人の警察不信

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2017年のアメリカ映画「スリー・ビルボード(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri マーティン・マクドナー監督)」は、痛烈な警察批判をテーマとした作品。アメリカ人は警察に懐疑的で、トラブルを警察に頼らず自分で解決しようとする傾向が強い。さすがに殺人事件などは、警察に頼らざるを得ないが、警察はまともに仕事をせず、黒人への暴力行使など、ろくでもないことにうつつを抜かしている。そういった警察不信が露骨に表現された映画である。

娘をレイプされ殺された母親の執念がねちっこく描かれる。娘は街道沿いで殺されたのだが、七か月たっても捜査に進展がない。しびれをきらした母親は、意外な行動に出る。殺人現場の近くに設置されている広告版に、警察署長の怠慢を糾弾するような文章を掲示するのだ。広告版は三つあって、それぞれ「「娘はレイプされて焼き殺された」「未だに犯人が捕まらない」「どうして、ウィロビー署長?」という文章が書かれた。

掲示板は、町にセンセーションを巻き起こす。警察署の巡査たちによる嫌がらせをはじめ、さまざまな人たちが彼女のやり方を非難する。だが彼女はひるまない。しつこい警官にむかっては、あんたは黒人をなぐることに忙しくて、犯罪捜査の仕事をさぼっているとなじる。警察署長のウィロビーは、仕事をさぼっているわけではなく、捜査の手掛かりがまったくないのだと言い訳する。彼女はそんな言い訳を聞く耳はもたない。所長は末期がんになっていて、自分の余命がわかっている。そこで、おわびの気持ちを含めて自殺してしまう。

彼女への風あたりはますます強まる。憤慨した彼女は警察署に火炎瓶をぶち込んで焼いてしまう。たまたま警察署の中にいた巡査が、火に包まれて大やけどをする。その巡査は彼女に対してもっとも攻撃的だったのだが、どういうわけか、これを契機に彼女に好意的になる。

事件は意外な展開を見せる。ある男が、事件の犯人は俺だと公言したのだ。だが、新任の警察署長が捜査したところ、男の虚言だとわかる。それでも彼女は、その男に会いに行く決意をする。巡査もそれに同行する。とはいえ、なにをなすべきか、決意はさだかでないのだ。

こんな具合に、警察が一方的に悪いというふうにはしていない。警察は警察でせいぜい頑張っているのだと思わせるところもある。だが、全体の雰囲気としては、アメリカ人の警察不信を代弁するような内容である。

警察官の無能を皮肉る場面がある。黒人に暴力を振るう奴をクビにしたら、あとには三人しか残らない。その三人は大のホモ嫌いだ、という場面だ。アメリカの警察官には、フェアな人間は一人もいないと言っているようなものである。






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