嗣書 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第三十九は「嗣書」の巻。嗣書とは、嗣法の正統性を証明する書類のこと。嗣法とは、師から弟子へと仏教の教えが伝達されることを意味する。そういう意味での嗣書は、すでに取り上げた「伝衣」と似ている。伝衣は、教えの伝授にともない、法衣の付与がなされることを意味した。嗣書は、嗣法を書類の形で証明するものなので、伝衣より強いインパクトをもつ。

道元は、形式にはとらわれないほうだが、こと嗣書に関しては、その有効性について疑問を呈さないばかりか、現物を見せられて感激してもいる。

嗣書は嗣法に伴うものであるから、まず嗣法の意義について次のように説く。「佛佛かならず佛佛に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する、これ證契なり、これ單傳なり。このゆゑに無上菩提なり。佛にあらざれば佛を印證するにあたはず。佛の印證をえざれば、佛となることなし。佛にあらずよりは、たれかこれを最尊なりとし、無上なりと印することあらん」。単に師匠から弟子に伝わるというのではなく、仏から仏へと伝わるというのである。

そのうえで嗣書がなされる。それは次のようなものである。「この佛道、かならず嗣法するとき、さだめて嗣書あり。もし嗣法なきは天然外道なり。佛道もし嗣法を決定するにあらずよりは、いかでか今日にいたらん。これによりて、佛佛なるには、さだめて佛嗣佛の嗣書あるなり、佛嗣佛の嗣書をうるなり。その嗣書の爲體は、日月星辰をあきらめて嗣法す、あるいは皮肉骨髓を得せしめて嗣法す。あるいは袈裟を相嗣し、あるいは杖を相嗣し、あるいは松枝を相嗣し、あるいは拂子を相嗣し、あるいは優曇花を相嗣し、あるいは金襴衣を相嗣す。鞋の相嗣あり、竹箆の相嗣あり」。嗣書のありようとしては、書類のほか袈裟を相嗣することすなわち伝衣もあると言っているが、それは付随的なことで、やはり書類の形に残すのが本来のあり方であろう。

嗣書の意義について述べたのちに、道元は自分自身が体験した嗣書の実際の姿について感激を以て語る。「道元在宋のとき、嗣書を禮拜することをえしに、多數の嗣書ありき」と言っているとおり、悟りを得た僧侶は多数いて、その各々が嗣書を持っていたということであろう。

西堂という僧の嗣書には次のように書かれていた。「初摩訶迦葉、悟於釋迦牟尼佛。釋迦牟尼佛、悟於迦葉佛」。これは釈迦と迦葉との間に嗣法がなされたということで、西堂自身についての言及はない。ところが、中には嗣書を持っているもの自身へ言及したものもある。臨済系の嗣書にはそういうものが多い。だが、道元はそういったものを尊重しない。嗣書は嗣法の意義を書せばよいのであって、なにもそれを持っている者自身の名を記さなくともよいと考えたのであろう。

道元がもっとも感激した嗣書は、平田の万年寺の住持に見せてもらったものである。これには梅の花が描かれていた。梅花をもって悟りの境地をあらわしたのである。曹洞宗の法統には、文字ではなく形象を以て嗣書の内実を表現したものが多かったようである。曹洞系の嗣書の特徴を道元は次のように述べている。「いまわが洞山門下に、嗣書をかけるは、臨濟等にかけるにはことなり。佛の衣裏にかかれりけるを、青原高祖したしく曹谿の几前にして、手指より淨血をいだしてかき、正傳せられけるなり。この指血に、曹谿の指血を合して書傳せられけると相傳せり。初祖・二祖のところにも、合血の儀おこなはれけりと相傳す。これ吾子參吾などはかかず、佛および七佛のかきつたへられける嗣書の儀なり」。誰それより誰それが嗣法されたなどと書かず、仏から仏へと嗣法されたと書くというのである。






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