クロノスとアイオーンについて:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む

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ドゥルーズの提示する世界認識の基準としての高さ・深さ・表層は、いわば空間論である。では時間論は何かといえば、それはクロノスとアイオーンをめぐる議論である。空間論が三つの基準軸を持つのに対して時間論が二つの基準軸しか持たないのは、空間論が一つ余計な部分を設けているからである。それは、空間に高さという永遠不変な要素を持ち込んでいることだ。永遠不変も時間の一つのあり方だという見方も成り立たないわけではないが、不変つまり動かない時間というのは、やはり形容矛盾というほかはないので、ドゥルーズはそれを時間をめぐる議論から外したのだと思う。

ドゥルーズは、時間についての読み方は二つあるという。クロノスの読み方とアイオーンの読み方である。この二つの差異をごく単純化していうと、クロノスは深層における時間、アイオーンは表層における時間ということになろう。高層は、定義からして時間を超脱しているので、高層における時間は度外視できる。

まず、クロノスとは何か。クロノスの時間は現在だけである。過去と未来は現在の延長である。あるいは拡大された現在である。「現在だけが時間を満たし、過去と未来は、時間のなかで現在に対して相対的な二つの次元である。つまり、或る現在(或る延長、或る持続)に対して未来もしくは過去であるということは、もっと広い現在、もっと大きな延長、または持続の部分であるということである。過去と未来を吸収するもっと広い現在がいつも存在している」(岡田・宇波訳)。

時間についてのこうした捉え方は、ベルグソンの時間論を踏まえているのであろう。ベルグソンは、時間は意識の流れであって、その流れはつねに現在という形をとり、過去はその現在の延長された部分だというふうに考えた。それをドゥルーズも受け継いだといえるのだが、ベルグソンは過去と現在とを結びつけることはあっても、未来を現在と結びつけることはしなかった。だから、ドゥルーズはベルグソンより一歩進んで、時間を包括的に考えたということができよう。すくなくともクロノスの時間については。

一方、アイオーンの時間においては、現在は瞬間である。瞬間であるから厚みはない。過去と未来が包摂される余地はもたない。これを言い換えれば、「過去と未来だけが時間のなかで主張し、存続する。過去と未来とを吸収する現在のかわりに、それぞれの瞬間に現在を分割し、現在を過去と未来とに、しかも同時に二つの方向に無限に細分する未来と過去がある」ということになる。つまり時間は、過去・現在・未来というそれぞれ相互に独立した次元に分割できるというわけである。

アイオーンの時間についてのこうした見方は、空間論における表層と深く結びついている。表層は、深層との関係においては、できごとの領域であった。できごというのは、偶然性にもとづいた差異からなっているので、一時的でかつナンセンスなものである。その一時的でナンセンスな面を時間にあてはめれば、瞬間ということになる。瞬間において生成するできごとは、相互の間に何らの因果関係をもたず、したがってあくまでも偶然のものである。瞬間的でかつ偶然のできごとは、時間の厚みをもたず、かつそれが生成した原因ももたない。偶然のできごとに原因はないからだ。

これに対してクロノスの時間は、厚みと延長をもっている。そうしたクロノスの時間がなぜ深層と結びつくのか。深層とは、要するに無意識の領域である。それに対して表層は、意識に基礎づけられていると言ってよい。ベルグソンは、時間の流れをあくまでも意識と関連付け、無意識という概念を排斥したのであるが、ドゥルーズは時間に無意識の領域を認め、それを深層という概念に紐づけしたわけである。

以上のことから言えるのは、ドゥルーズの時間論が、彼独特の空間論と密接に結びついているということだ。厚みを持った現在というクロノスの時間は、無意識の領域である深層を支配し、一方瞬間的な時間としてのアイオーンの現在は、意識の表層に属している、というわけだ。そうした両者の関係を、ドゥルーズは例によって、関節外しのような意味深長な言い方で表現している。すなわち「瞬間を表象するアイオーンのこの現在は、クロノスの広くて深い現在とはまったく異なっている。それは、厚みのない現在であり、俳優・ダンサー、もしくはパントマイムの現在、純粋な倒錯の現在である」というのであるが、ここで「俳優・ダンサーの現在」といきなり言われても、それによってなにかまともな表象を得られるとは、ちょっと考えられないのではないか。ドゥルーズ本人は、なにかまともなことを言っているつもりなのかもしれぬが。






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