賭博者の心理 ドストエフスキー「未成年」を読む

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ドストエフスキーには賭博癖があった。「罪と罰」と並行して書いた「賭博者」という小説は、自身の賭博経験を生かしているといわれる。その小説の中の主人公アレクセイには、ドストエフスキーの面影を指摘できる。「未成年」にも、賭博のシーンが出てくる。アルカージーの道楽としてである。その道楽をアルカージーはセリョージャ公爵に仕込まれたのであるが、いったんそれを始めると、その魅力にのめりこんでしまう。アルカージーにとって賭博は、遊びであると同時に手っ取り早く金を得る手段でもある。賭博を金を得る手段と考えるようになっては、なかなかやめられないであろう。

賭博は、当時のロシアでは非合法だったようだ。アルカージーが賭博の胴元に向かって、腹立ちまぎれに「密告してやるぞ」と叫んでいるから、ルーレット賭博が非合法だったとわかるのである。

ともあれアルカージーは、賭博の楽しみを覚えると、単身いかがわしい賭博場に通うようになる。負けることもあるが、勝つこともある。アルカージーにはたいした自尊心があって、自分が冷静に振舞いさえすれば、かならず勝てると思い込んでいる。その思い込みが、かれをいっそう賭博狂にさせるのである。そのことをかれも自覚していて、自分は賭博のために堕落したと認めているのである。

そんなアルカージーが、大胆な勝負に出る。その時にはまとまった金が欲しくて、それを賭博で稼ぎ出そうとしたのである。その金とは、セリョージャから受け取った金を返すためのものであった。かれには勝てるという自信があったので、大胆な勝負に打って出たのである。その自信をかれは次のように言い表している。「私は今でも、どんな激しい勝負のときでも、すこしも冷静さを失わず、頭脳の怜悧さと読みの正確さを保っていれば、血迷って雑なしくじりをしでかして負けるわけがない、という確信をもっている」(工藤訳)。

そういう確信は、賭博に確率論を応用することから生まれるのであろう。じっさい、この小説の場面では、かれは自分の勝負を確率論的な見地から計算している。その結果勝ってもいる。その勝ち方は偶然のものではなく、確率的にごくありうることだというふうに書かれている。

アルカージーは、賭博がもとでひどい目にあうのだが、それは勝負に負けたためではなく、他人とのちょっとしたいざこざのためであった。かれはかつてから、あるユダヤ人が自分の金を盗んでいるという妄想を抱いていたが、その妄想を大げさに持ち出し、そのユダヤ人を告発したのである。当然ながら賭場には混乱が生じる。かれの言い分はまともには受け取られず、かえってよそ者の言いがかりだと言われる。アルカージーはその場に居合わせたセリョージャに助け舟を求めるが、セリョージャは拒否する。そのためアルカージーは汚名を着せられたまま賭博場を出なければならなかった。

こんな具合に、アルカージーにとって賭博は、金を得るための手っ取り早い方法なのだが、それには余計なリスクが伴うのである。リスクは金を失う可能性ばかりではない。賭博場をとりまく雰囲気が人間を堕落させ、その挙句に始末の悪い事態に追い込まれることもある。そうした始末の悪さは、ドストエフスキー自身経験したものではなかったか。この小説の中の賭博のシーンが妙に現実味を感じさせるのは、そこにドストエフスキーの体験が込められているためではないか。

泥棒の汚名を着せられたアルカージーは、自分の名誉を挽回しようとするのではなく、かえってその汚名を受け入れる気持ちになる。それは彼に自虐的な傾向があるからだ。アルカージーはその自虐性を次のように表現する。「わたしは常に、おそらくほんの小さな子供の時分から、卑屈なところがあって、なにかわるいことをされ、しましそれが中途はんぱなものでなくて、ぐうの音も出ないほどに思い切り侮辱されると、そこでかならず受動的にその侮辱に服したいというやみがたい願望がわたしの内部に生まれて、相手の気持ちを先回りして、『おや、あなたは僕を辱めましたね、じゃ僕がもっともっと自分を辱めてごらんにいれましょう。さあ、どうです、たっぷり楽しんでください!』というような気持になるのである」。

こういう気持ちは、ドストエフスキー自身も持ちがちだったと思われる。かれには癲癇のほかにも精神病質があって、それがマゾヒズム的な自虐性をもたらしたのではないか。






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