剰余労働の搾取:資本論を読む

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資本家の目的は剰余価値の取得である。剰余価値とは、生産物を売った結果得られる収入が、生産に必要とされた費用を上回る部分で、今日の主流経済学はこれを利潤と呼んでいる。主流経済学は、利潤率を生産のために投下された総費用との関係において計算するが(利潤率=利潤/労賃を含む生産に必要な総費用)、マルクスは剰余価値について全く違う計算の仕方をする。

剰余価値についての議論の前提としてマルクスは、不変資本と可変資本の区別を持ち出す。不変資本とは、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転化される資本部分のことで、この部分は生産過程でその価値量を変えない。つまりその価値と全く同じものを生産物に移転するだけである。それをマルクスは不変資本部分、またはもっと簡単に不変資本と呼ぶ。

これに対して労働力に転化された資本部分は、生産過程でその価値量を変える。それはそれ自身の等価と、これを超える超過分、すなわち剰余価値とを生産する。この部分をマルクスは可変資本部分、またはもっと簡単に可変資本と呼ぶのである。

このようにマルクスにあっては、剰余価値の源泉は可変資本だけである。つまり、剰余価値は労働力の労働から生まれるということになる。それゆえ、剰余価値率を計算するためには、この労働の性質を踏まえねばならない。

マルクスは労働を、必要労働と剰余労働に分ける。必要労働とは、労働力そのものの再生産に必要な部分である。その部分が労働力の交換価値を決める。労働力の交換価値とは、労賃という形をとるものである。しかし実際の労働は、その交換価値の部分を超過して行われる。その超過の部分が剰余価値を生むわけである。その秘密は、労働力が交換価値と使用価値とからなっており、使用価値としての労働は、労働の交換価値以上の価値を生みだすというところにある。

以上を踏まえてマルクスは、剰余価値率を、剰余労働/必要労働と定式化する。必要労働は労働者が自分自身の生活の再生産のために働く部分、剰余労働はそれを超えて働く部分と言える。もしこの二つの部分が等しければ、剰余価値率は100パーセントになる。その場合には、単純化して言えば、労働者は一日の労働時間のうち半分は自分自身のために働き、残りの半分は資本家をもうけさせるために働くということになる。

もっともこれは、思い切り単純化した言い方で、実際にはすべての労働時間について、必要労働と剰余労働とが混在しているわけである。あるいはすべての労働時間は必要労働と剰余労働から成り立っていると言ってよい。

ところが一部の資本家の目には、労働者の労働時間が、一部は労賃に対応した部分、一部は自分自身の利潤に対応した部分というふうに見えるらしい、とマルクスは皮肉る。それが典型的にあらわれるのは、労働時間の短縮に資本家たちが反対する時である。その際に資本家の立場を代弁して論陣をはったのがシーニアだったことから、これは「シーニアの一時間」として、経済学史上の有名なエピソードになっている。シーニアは、労働時間が一時間短縮されることで、利潤の大部分が消し飛んでしまうので、労働時間を短縮するのは資本家の努力を無にするものだとして、反対したのである。どういう理屈からこういうことを言うかというと、資本家の目には、労賃部分を超えて働かせることからは、そのすべての余剰部分がそのまま資本家の利潤になるという思い込みがあるからである。だから、11時間労働を10時間労働にすることによって、資本家の利益はほとんど消し飛んでしまうというような懸念を表明するのである。実際にそうならないことは、ちょっと頭を働かせればわかることなのだが、欲に目がくらんでいるためこういう見方しかできないわけである。

剰余価値率は、労働力の搾取度として捉えられる。剰余労働の部分については、労働者にとっては全く余分な超過労働であり、資本家にとっては無償で取得できる超過利得になりうる。しかしそれは資本主義経済にとっては、合法的なことなのである。資本家は労働力をその価値に応じた価格で買うのであるし、買った労働力の使用価値の使い道は、一応資本家の自由になるわけだから。

以上を踏まえてマルクスは、剰余労働についての三つの法則を提示する。第一の法則は、剰余価値の量は可変資本の量に剰余価値率をかけたものに等しい、というものである。いいかえれば、搾取される労働力と一個一個の労働力の搾取度によって規定されるということである。

第二の法則は、二十四時間という労働時間の限界が、労働の搾取度の限界になるというものである。資本家は搾取すべき労働力の減少を、搾取度を引き上げることで補填しようとするが、それには二十四時間という労働時間の絶対的な限界があるということである。この法則が重要なのは、資本には、一方で可変資本をできるだけ縮小しながら、なおもできるだけ大きな剰余価値を取得しようとする矛盾した欲望があるからだ。

第三の法則は、剰余価値率または労働力の搾取度が与えられており、また労働力の価値または必要労働時間の長さが与えられていれば、可変資本が大きいほど生産される価値と剰余価値の量も大きいということである。これはわかりきったことをわざわざ言っているように聞こえるが、実は大事なことだ。

以上を通じてマルクスが主張していることは、剰余価値の源泉は可変資本としての労働力だということである。その理由は、可変資本だけが価値を増加させることができるからだ。不変資本は、原則として価値の増減をおこさない。時にはそういう場合があるのはたしかだ。たとえば、一定の生産期間中に原料価格が増減して、予定外の原料価値の増減が起りそれが生産物価格にはねかえることはありうる。機械の性能に変化が生じ、それが生産物価格に影響することもあるだろう。そういう場合には、不変資本が生産物価格を増減する働きをするが、それはあくまでも例外的なことである。原則的には、価値の増減は可変資本である労働力によってもたらされるというのが、マルクスの基本的な立場である。

これらのことから、一国の剰余価値の総額は、労働力人口の規模によって左右されるという結論が導き出されるであろう。主流派の経済学もこのことは一定程度認めており、一国の国民所得の規模を左右する最大の要素は労働力人口だと考えている。だからこそ、人口減少傾向に直面している日本において、将来にわたる経済力の衰退が深刻に懸念されているわけであろう。






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