労働時間をめぐる闘争:資本論を読む

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労働者の一日あたりの労働時間を、マルクスは労働日の問題として取り上げている。労働日はどのようにして設定されるのか。資本の側からすれば、労働日は長ければ長いだけよい。しかし一日には二十四時間という時間的な限界があるし、一人の労働者を休みなく働かせることもできない。一方労働者の側からすれば、労働日は短ければ短いほど良い。その下限は、労働力の交換価値を生みだす労働量に一致するであろう。その水準でならば、労働者は自分の本来の価値で労働力を売ったことになるが、しかし資本家の為の剰余労働を生み出すことはない。そんなわけで労働日は、二十四時間を上限とし、必要労働を下限とする範囲内で決まることになる。それを決めるのは、資本と労働との間の闘争である。

資本は労働力の買い手としての権利を主張し、労働者は売り手としての権利を主張する。そこでマルクスは言う、「ここでは一つの二律背反が生ずるのである。つまり、どちらも等しく商品交換の法則によって保障されている権利対権利である。同等な権利と権利のあいだでは力がことを決する。こういうわけで、資本主義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界をめぐる闘争~総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級との闘争~として現われるのである」

このような前提に立ってマルクスは、資本主義の発展に伴う標準労働日(標準的労働時間)をめぐる闘争の歴史を概観してみせる。

資本は本来的に剰余労働の増大を欲求する。だから資本主義的生産の初期の段階から、剰余労働のあくなき追及は見られた。しかし、労働日が二十四時間にせまることはなかった。資本主義的生産が未発展の段階にあっては、生産は自然的な制約に服する部分が多いわけだし、そういう段階では、労働者を無制約にこき使うことにも限界があったからだ。その限界が突破されたのは、蒸気機関の発明と機械の普及である。これらによって、生産の自然的な制約は突破され、二十四時間の稼働が可能になった。それをふまえて労働者を際限なくこきつかう条件が揃ったのである。

とはいっても、資本主義的生産の初期の段階から、労働者の過剰な使役は見られたとマルクスは言い、その実例を多く取り上げている。それをマルクスは、剰余労働にたいする人狼的渇望と呼んでいる。その一例として、陶工があげられる。陶工は剰余労働を搾取されて、男も女も、肉体的にも精神的にも退化した住民を代表している。かれらがことにかかりやすいのは胸の病気で、肺炎や肺結核や気管支炎や喘息である。これらの病気は、繊維産業に機械が導入されて以降、女工の間に本格的に拡がったのだったが、すでにそれ以前に、特定の産業分野には見られたというわけである。

同じような悲惨な例は、たとえばマッチ工場でも見られる。その悲惨さは、「ダンテも、こんな工場では、彼の悲惨きわまる地獄の想像もこれには及ばないと思うであろう」とマルクスは言っている。資本主義的生産の初期の段階でも剰余労働へのあくなき追及が見られたのは、不払い労働が競争の基礎となっていることを、資本家たちが知っていたためであるというのだ。かくして「われわれの白色奴隷は、墓にはいるまでこき使われ、疲れ果てて声もなく死んでいくのだ」

大規模機械工業が普及してくると、労働日は限界一杯に延長されるようになる。資本家にとっては、休みなく機械を運転させることで、剰余価値の最大化を図れるからである。機械を休ませては何の価値も生み出さない。機械つまり「不変資本、生産手段は、価値増殖過程から見れば、ただ労働を吸収するために、そして労働の一滴ごとにそれ相当の量の剰余価値を吸収するために、存在するだけである・・・一日まる二十四時間の労働をわがものにするということこそ、資本主義的生産の内在的衝動なのである」

かくして、労働日を二十四時間まで拡大するという衝動が実現される。一人の人間を二十四時間働かせるわけにはいかないから、交替制を導入することによってその制限を突破する。かくして労働者は、二十四時間切れ目なく稼働する生産体制の中に組み込まれていくのである。その結果労働者の労働時間は、生存のギリギリの制限まで拡大されるし、またその制限を突破してこき使われることで、寿命を奪われ若死にするはめになる。これは総資本としては都合の悪いことに違いないのだが、個別の資本にとってはそうではない。目先の利益が図られれば、その先のことは問題ではないのだ。「われ亡きあとに洪水はきたれ! これがすべての資本家、すべての資本家国の標語なのである」

これに対して労働者のほうは、はじめは資本の言いなりになっていたが、やがて強く反抗するようになる。標準労働日をめぐる戦いに立ちあがるのである。この戦いは当面、つまりマルクスが資本論を執筆していた当時には、まだ十二時間の労働日を勝ち取っていたに過ぎない。それもすったもんだの結果やっと勝ち取ったのである。十二時間労働日は、1770年の「理想的救貧院」で一般的なものだった。ところが1833年の工場法によってそう定められるにあたっては、「まるでイギリス工業の最後の審判の日がきたように」資本家たちによって大反対されたものである。

工場法の制定によっても、労働者の待遇がなかなか改善しなかったことを、マルクスは実例をあげながら解説する。特に児童労働と婦人労働の分野で深刻な現象が生じたことを強調する。イギリスの資本主義経済の発展について、児童労働が果たした役割は想像以上に大きかったようだ。だから工場法によって保護の対象にされたのは、主に児童と婦人だった。それを推進させたのは、労働者側の運動だったわけだが、その背景にはやはり、無制約な労働強化が、国家全体にとってマイナスに働くという当たり前の認識が広がっていったこともあるだろう。

マルクスが資本論第一部を執筆したのは1860年代半ばのことだが、その頃には、日本はまだ本格的な資本主義経済の段階に達していなかった。日本で本格的な工場生産が始まるのは、1890年代以降である。遅れて工場生産を導入した日本もまた、イギリスにおいて生じた労働問題を後追いで経験したことになる。マルクスが資本論の中で指摘したような、非人間的な労働は、新興の繊維産業分野を中心にして次第に広がっていった。細井和喜蔵が「女工哀史」で指摘したような悲惨な労働の実態は、マルクスが資本論で指摘した事態とほぼ変わらない。

八時間労働が一般化し、労働条件が国家によって厳しく制限されるようになるのは、二十世紀以降のことである。それについては、労働者階級の労働条件をめぐる闘争が大きな力となっているが、それと並んで、国家による国民統治のあり方に変化が生じたこともある。それまで国民の生活にあまり関心を払っていなかった国家が、国民の生活に深く関与するようになる。ミシェル・フーコーは、国家による国民生活への介入を、「生に対する権力」と言ったが、それは具体的には、福祉国家というような形をとった。

資本主義国家がいわゆる福祉国家化する理由としては、二つ指摘できる。一つは社会主義国家の出現であり、もう一つは挙国一致戦争の普遍化である。社会主義国家の出現は、資本主義体制への深刻な疑問をつきつけた。そこで資本主義国家は、社会主義国家との競争に勝ち抜くために、労働者の利害にも気を配らざるをえなくされた。また挙国一致戦争の普遍化は、国民全体を戦争に向けて組織化することを強いた。国家は労働者を戦争に動員するために、労働者自体の福祉は無論、労働者が戦争で死んでも家族が路頭に迷わないようにする必要があった。そうした要請が、福祉国家への趨勢を強めたのである。

それゆえ、そういう要請が弱まれば、再び労働者が無慈悲に搾取されるようになるのは避けられない。実際にそのような動きが出てきている。その背景には、社会主義国家の相次ぐ崩壊によって、いまや社会主義との競争を意識しないですむようになったこと、またグローバリゼーションの進行によって国家の枠組みが弱まり、大国同士の挙国一致戦争の可能性も遠のいたことで、労働者に対して気を配る必要性が低くなってきたこと、などがあげられる。

 




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