幻の薔薇:アモス・ギタイ

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アモス・ギタイはイスラエル国籍のユダヤ人だが、フランスで映画作りをしたこともあった。2009年の作品「幻の薔薇(Roses a credit)」も、フランスで作った映画だ。舞台はフランスのさる町、俳優もフランス人であり、フランス映画といってよい。フランス映画であるから、フランス人の生き方をテーマにしているのは、当然のここといえるのだが、そこにはギタイのユダヤ人としてのこだわりを感じることができないでもない。

第二次大戦後のフランス人の生き方がテーマだ。大戦後フランスは復興の波に乗って、次第に豊かさを取り戻していく。一組の男女がそんな時代を背景にして、身分不相応に贅沢な暮らしをしたあげく、経済的に破綻していくというような内容だ。

その男女のうち、特に女性の生き方に、戦後復興期におけるフランス人のこだわりのようなものを感じることができるのだが、そんなフランス女の生き方に、どうも同時代のユダヤ人の生き方を感じてしまうのだ。このフランス女は、もともと貧しい家の生まれだが、戦後レジスタンスの英雄と呼ばれた男を口説き落として結婚に成功する。男はたいした金持ちでもないが、妻の浪費を放置する。妻の浪費は限度というものを知らず、やがて経済的に破綻するというような内容だ。

そんなフランス女の生き方がなぜユダヤ人の生き方と重なってしまうのか。ユダヤ人は、ナチスのホロコーストを生き残ったあと、パレスチナを占領して自前の国家を作った。もともと他人の土地の上に築いた国家だから、基盤は弱い。しかしユダヤ人たちは、その弱い基盤の上で、やりたい放題のことをしてきた。そんな手前勝手な生き方が、この映画の中のフランス女の生き方に似ているということのようだ。

そのフランス女を演じたレア・セドゥがよい。小柄な体つきながらも、形のよい乳房が男の気持を掻き立てる。小生などは、形のよい乳房に、ほとんどフェティシズム的な愛着を感じるほうだが、それはおそらく幼年時代に、母親の乳房に育まれたことに淵源するのだろう。この映画の中のレア・セドゥの乳房には、そうしたノスタルジーを搔き立てるものがある。





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