仏教の現代的意義:梅原猛の仏教概論

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「仏教の思想」シリーズの第一巻「智慧と慈悲<ブッダ>」に、梅原猛が寄せた小論「仏教の現代的意義」は、原始仏教から大乗仏教ひいては日本の鎌倉仏教までを含めて、すべての仏教に共通する要素について考察する。それゆえ梅原なりの仏教概論というような体裁である。その考察を通じて梅原は、仏教の現代的意義を指摘したいというのだろう。梅原は西洋の宗教であるキリスト教に強い疑問を感じているようで、今後人類を宗教的に救うものとしては、仏教こそがもっとも相応しいと思っているようなのである。それゆえこの小論は、きわめて論争的である。その点では、キリスト教を意識しながら「大乗仏教概論」を書いた鈴木大拙と共通するものがある。

仏教全体に共通する要素として梅原が取り上げるのは、生死、慈悲、業の三つである。そしてそれらをソクラテスの思想やキリスト教と比較しながら、仏教の思想的な特徴を明らかにしようと試みている。

まず、生死。人間の信仰心は、死への畏敬から始まったと思われ、そこに世界のあらゆる宗教が根ざしているとすれば、生死の問題が仏教の基本的な要素をなしているということは分かりやすい見方である。そういう観点からすれば、孔子の説は思想であって宗教ではないということになろう。じっさい梅原は、孔子の言葉「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」を取り上げて、孔子の教えが宗教的ではないことをほのめかしている。

死についての釈迦の見方は諦念というべきものだったと梅原は言う。人間は死すべきものだ、という考えがその背景にある。死すべき存在だということは、ソクラテスもキリスト教も認めているが、それは肉体として死すべきことをさしており、魂は死なないのだという見方をしている。ところが釈迦は、死後のことは語らない、と梅原は言う。じっさいには、釈迦には輪廻転生の思想があり、人間は今の生を終えても、さまざまな姿で生き返るという考えがあったわけで、梅原の見方は一面的であるかもしれない。だが、その釈迦も輪廻転生からの脱却を涅槃とみている限りは、涅槃としての死は最終的な死であって、その後のことを語る意味はないと言えなくもない。

死についてのソクラテスの考えは、肉体は滅びても魂は生き続けるというものであり、魂不死説といえる。それはおそらくプラトンの考えでもあって、プラトンはそれを「パイドン」の中で展開してみせた。「パイドン」では、ソクラテスは死が望ましいことのように受け止めたと書かれているが、それは、魂は別の世界で生き続け、その生き方は現世のそれよりはるかに好ましいものだという確信があったからにほかならない。

一方、キリスト教の死についての考えは、死後の復活というもので、これはパウロの哲学に基礎付けられたものだと梅原は言う。死後の復活は、キリストの死後の復活によって象徴されているが、人間もまた、死後復活する時がある。それは世界が終末を迎えるときであり、その時において全ての人間は、復活して神の裁きを受けるというような筋書きが用意されている。この筋書きによれば、人間の死は暫定的なものである、ということになる。

魂不死説といい、死後の復活といい、人間の死を最終的なものと見ないことでは共通している。そのような考えが出てきたのは、なんといっても死に対する人間の恐怖があったためだ。死は、それを合理化する説明がないと、人間にとっては耐え難いことなのである。釈迦は死を、キリスト教やソクラテスのような形で合理化することはなかったが、死が涅槃と結びつく限りでは望ましいことだと考えていたわけで、その意味ではやはり死を合理化したと言えなくもない。その合理化の仕方が、キリスト教やソクラテスほど露骨でなかっただけである。

次に、慈悲。慈悲とは人間の他人との関係において問題となるものである。簡単に言えば「思いやり」ということになろうか。あるいは「あわれみ」と言ってもよい。この慈悲が向けられるのは「衆生」である。衆生とは、人間に限らず、生けるもののすべてを含んでいる。そこがキリスト教などとは根本的に異なるところだ。仏教の慈悲に対応するキリスト教の言葉は「愛」であるが、キリスト教の愛は人間だけに向けられるもので、動物には向けられない。動物は人間のために食われる、つまり殺されるものである。ところが仏教は、あらゆる生き物を慈悲の対象として、殺生することを戒めている。

仏教の慈悲は、見返りを求めない一方的なあわれみの情であるが、キリスト教の愛はそうではないと梅原は言う。キリスト教の愛は、人間に対する神の愛に代表される。神は人間に愛を与えるかわりに、人間からの絶対的な帰依を求める。帰依しないものには復讐が加えられる。神の愛は復讐と一体なのだというのである。そうしたキリスト教の愛についての教説は欺瞞的だと梅原は言う。そしてキリスト教が欺瞞的なのは、ユダヤ民族のエゴイズムをたずさえているからだと言うのである。キリスト教の神はユダヤ人だけの神であり、それ以外の民族は異教徒として、人間らしい扱いを受けないのである。

三つ目に、業。業とは、人間が生まれ持つ宿命というような意味の言葉であり、したがって縁起とか因縁とかいったものと深いかかわりがある。その点では、増谷がいう存在論と強いかかわりがある。それは世界についての相対的な見方となる一方で、そこに生きる人間にとっては、煩悩の源泉となる。煩悩は苦のために起こる。その苦から脱却するためには、苦の原因たる無明・渇愛を捨てねばならない。増谷がいうところの「四聖諦」の勧めである。

こうして見ると、梅原の仏教理解は、増谷のそれと深く響きあっているといえる。増谷は、釈迦の教えを存在論と実践論にわけ、存在論としての縁起の思想と、実践論としての四聖諦の勧めを言うわけだが、それを梅原は、生死、慈悲、業という三つのもので説明する。慈悲は増谷のいう実践論、業は存在論に対応し、生死はその二つにまたがりつつ、釈迦の教えを宗教に高めたものとして打ち出しているわけである。

以上を踏まえて梅原は、仏教の現代的意義について強調するのである。それは、滅亡の危機が叫ばれる現代の地球においては、キリスト教的な考えでは地球を救うことは出来ない。なぜならキリスト教は真の意味で平和的ではないからだ。真に平和的なのは仏教であって、その仏教の平和主義こそが、地球を滅亡から救うことが出来る、というようなことである。






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