性的存在としての身体:メルロ=ポンティ「知覚の現象学」

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人間が身体であること(人間の身体性)を最も強く感じさせるのは「性的」なことがらである。メルロ=ポンティはその性的なことがらを、色情によって基礎づける。色情というのは性欲の発露、というか衝動であって、それにとらわれた人間は、その色情する自分を認識するのではなく、生きるのである。認識とは、認識する自分と認識される対象との関係であるが、色情においては、色情を知覚する自分と、知覚される色情とは一体となっている。それは色情が身体の衝動であって、知性とはほとんどかかわらないからである。

性的衝動を重んじた思想家としてフロイトがあげられるが、フロイトの場合、性欲は原始的な衝動とはいえ、知性と無関係ではなかった。フロイトの知性は、意識の下層に無意識を前提とするものであったが、無意識といえども意識の一種なのであって、その意識としての資格において知性とかかわりをもった。ところがメルロ=ポンティにおいては、色情としての性欲は、知性とはほとんどかかわりがなく、もっぱら身体の衝動なのである。身体の衝動であるから、それを知的に認識することは問題にならない。身体の衝動は認識するものではなく、生きられるものなのである。

身体そのものには無論、知性とかかわりあう部分もある。われわれが対象を知覚するとき、それは身体を介してなのであり、身体こそがわれわれに世界との接点を用意するのである。われわれは抽象的で透明な意識として世界と接しているわけではなく、身体を通じて世界とかかわっている。だから、身体を、知性とはほとんどかかわらない色情に還元するわけにはいかない。だが、色情こそは身体の最も身体らしい表現なのである。

サルトルは意識を無としてとらえ、無である限りつねになにものかによる充実を求めざるをえないとしたが、それと似たような考えをもって、メルロ=ポンティは身体が「感覚器官」であるかぎりなにものかによって触発されることを求めざるを得ない点では無であるとした。「身体的実存は、それが<感覚器官>というものを身につけているかぎりでは、けっして自分自身に安らってしまうことはなく、いつも一つの能動的な虚無(虚無化作用)によって苦しめられている」(竹内、小木訳)というわけである。

ここで「身体的実存」という言葉を使っているが、その実存とは我々人間の世界における生き方をさしている。つまりわれわれ人間の世界内存在としてのあり方を実存というのである。その実存が「身体の中に己を実現する」とメルロ=ポンティはいう。そうした身体の中で実現される実存のもっとも身体的な部分が性的なことがらなのである。性的な感情としての色情は、身体のもっともストレートな表現だ。

ところで色情とは、他者の存在を前提としている。色情が向かう先は、自分自身ではなく、他者の身体なのだ。だが、「性的存在としての身体」を主題とした章においては、他者の問題はとりあえず避けられている。ただ、色情として現れる愛の対象は、意識によって生気づけられた女でなければならず、意識の壊れてしまった「気違い女」は愛の対象とはならないというのは忘れない(これは蛇足だが、「気違い女」を愛せるのは川端康成のような男だけだろう)。

身体はさまざまな領域をもっているが、その中で性をより多く宿している身体領域がもっとも強い力をもつ。それについてメルロ=ポンティは、「私の経験の特権的形態を動機付ける」といっている。「性はあたかも匂いのように、あるいは音のように発散している・・・このように解すれば、つまり曖昧な雰囲気だと解すれば、性は生活と同じだけの拡がりをもっている」というのだ。このように性の特権性を強調するところは、フロイトに通じる。

とはいえメルロ=ポンティは、フロイトのように性を宿命的なものとは考えなかった。人間は生まれたときに負わされた宿命に縛られているわけではなく、自分をたえず新らしく作り直していく存在である。このことをメルロ=ポンティは、「人間とは歴史的観念であって、自然的一種族ではない」と言っている。「人間存在というものは・・・ひきうけの行為を通じて、偶然を必然まで変化させる運動だからである」というのだ。この世に存在することになったのは偶然だが、そこから出発してたえず自分を作り直し、そこから自分なりにふさわしい生き方のスタイル(身体図式としての)を確立していく運動、それが人間の存在仕方であり、そこに人間としての必然性があるのだと言いたいわけであろう。






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