仏性:正法眼蔵を読む

| コメント(0)
「正法眼蔵」第三「仏性」の巻は、仏教の根本思想の一つ「仏性」について説いたものである。「仏性」とは、仏になるべき可能性とか素質とされているもので、誰にも生まれながらに備わっているとされる。大乗仏教の経典の中には、仏性は人間のみならず、ほかの生き物、更には草木国土にまで備わっていると説くものがある。道元もまた、人間以外のものを引き合いに出しながら「仏性」を説いているので、基本的にはありとあらゆるものに仏性が備わっていると考えていたといえる。だが道元には一方で、仏性は無為にしては現成せず、修行によって始めて現成するという思想もあり、一筋縄ではいかないところがある。

この「仏性」の巻の内容が初めて説示されたのは、仁治二年(1241)、道元満四十一歳の年である。この頃の道元は、比叡山の弾圧を受けて、なかなか安定した基盤を得ることができないでいたが、仏教への情熱はいやましに高まり、また布教や弟子の育成にも身が入ってきた。道元が「正法眼蔵」に収められることになる説示の活動を本格化させるのは、四十二歳の頃からだが、「仏性」はその先駆けといえるものである。

「仏性」についての釈迦の教え、また道元が「単伝」と言っているような、禅門の先駆者たちが代々伝えてきた「仏性」についての教えを紹介しながら、「仏性」についての道元自身の考えを展開したものだ。全体は十五の段落からなっている。釈迦の教えに始まり、歴代の禅門の高僧たちの教え、更には自分自身の体験に言及しながら、道元自身の「仏性」論を展開する。

まず、冒頭の段落とそれに続く第二の段落は、釈迦自身の言葉を拠り所にしながら「仏性」を論ずる。冒頭の段落は、次のような言葉で始まる。

 釈迦牟尼仏言、「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」。
 これ、われらが大師釈尊の師子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏、一切祖師の頂寧眼睛なり。参学しきたること、すでに二千一百九十年(当日日本仁治二年辛丑歳)正嫡わづかに五十代(至先師天童淨和尚)、西天二十八代、代代住持しきたり、東地二十参世、世世住持しきたる。十方の仏祖、ともに住持せり。

これは「大般涅槃経」の「獅子吼菩薩品」からの引用である。「大般涅槃経」は、「仏性」という言葉を初めて使った経典と言われるが、それを、釈迦が初転法輪の中で獅子吼したとする。それ以前の経典では、釈迦が初転法輪の中で獅子吼したのは「四諦」の真理と「縁起」の教えであるとしてきたが、「大般涅槃経」は「仏性」の教えこそが、釈迦の初転法輪の内容だったというのである。それは具体的には、「一切衆生、悉く仏性有り、如来常住し、変易有ること無し」と言われる。すなわち一切の衆生にはことごとく仏性が備わっているというのである。

 世尊道の一切衆生、悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来(是れ什麼物か恁麼に来る)の道転法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。 
 悉有の言は衆生なり、群有也。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。単伝する皮肉骨髓のみにあらず、汝得吾皮肉骨髓なるがゆゑに。

「一切衆生、悉く仏性有り、如来常住し、変易有ること無し」について、さらに踏み込んで説明する。「是什麼物恁麼来」は、何がそのようにして来るのか、という意味。仏性がどのようにして一切衆生に備わったのか、ということだろう。仏性はそもそも一切衆生と異なることろはないというのが、とりあえずの説明だ。

 しるべし、いま仏性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼睛なり、衲僧鼻孔なり。悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず、いはんや縁有、妄有ならんや。心・境・性・相等にかかはれず。しかあればすなはち、衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、法爾にあらず、神通修証にあらず。衆生の悉有、それ業増上および縁起法爾等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提、仏祖の眼睛も、業増上力および縁起法爾なるべし。しかあらざるなり。盡界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず、「直に根源を截るも未だ識らず、忙忙たる業識幾時か休せん」なるがゆゑに。妄縁起の有にあらず、遍界不曾藏のゆゑに。遍界不曾藏といふは、かならずしも満界是有といふにあらざるなり。遍界我有は外道の邪見なり。本有の有にあらず、亘古亘今のゆゑに。始起の有にあらず、不受一塵のゆゑに。條條の有にあらず、合取のゆゑに。無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。始起有の有にあらず、吾常心是道のゆゑに。まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢なり。悉有を会取することかくのごとくなれば、悉有それ透体脱落なり。

これは、「一切衆生、悉有仏性」という言葉から、「衆生悉有」を熟語として取り出し、衆生と悉有との関連について説くもの。当初のフレーズは、「一切の衆生が悉く仏性を有す」と読めるが、「衆生悉有」というふうに切り出すと、衆生と悉有とが並列することになり、そこから新しい意味が生じる。道元はここで、「悉有」という言葉を「衆生」という言葉を主語とした熟語として捉えるのではなく、「悉有」それ自体が主語になるべき内容をもっており、その内容とは「一切の存在者」だと言っているのである。そこから更に、「衆生」、「悉有」、「仏性」を並列させ、これら三つがすべて存在者を意味していると説くのである。すべての存在者というも、仏性というも、異なったものではないのだ、という主張である。

 仏性の言をききて、学者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり。それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆゑなり。いたづらに風火の動著する心意識を仏性の覚知覚了とおもへり。たれかいふし、仏性に覚知覚了ありと。覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云云の邪解を覚知とせず、風火の動静を覚知とするにあらず、ただ一両の仏面祖面、これ覚知なり。

これは、仏性を分別知の対象と考えてはならないという主張を述べたものである。そのように考えるのは、小乗の徒の誤りであるというのである。

 往往に古老先徳、あるいは西天に往還し、あるいは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稲麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎なるによりて、いまの失誤あり。いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。たとひ覚知を学習すとも、覚知は動著にあらざるなり。たとひ動著を学習すとも、動著は恁麼にあらざるなり。もし真箇の動著を会取することあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。仏之與性、達彼達此(仏と性と、彼に達し、此に達す)なり。仏性かならず悉有なり、悉有は仏性なるがゆゑに。悉有は百雜碎にあらず、悉有は一条鉄にあらず。拈拳頭なるがゆゑに大小にあらず。すでに仏性といふ、諸聖と齊肩なるべからず、仏性と齊肩すべからず。

これも対象の知的把握を難じたもの。「風火の動著を仏性の知覚とおもへる」という言葉で、対象の知的把握が批判されている。仏性についての真の把握は、知的な把握ではなく、対象と我とが一体となることである。それを「仏と性と、彼に達し、此に達す」という言葉で表現している。

 ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花果もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに条条の赤心なりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。

これは、仏性が生まれながらに備わっていることを、草木が種子を宿していることにたとえるもの。そのように考えるのが「凡夫の情量」だと言っているが、それは否定的な意味合いではない。

 仏の言く。仏性の義を知らんと欲はば、まさに時節の因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す。
 いま「仏性義をしらんとおもはば」といふは、ただ知のみにあらず、行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、とかんとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふなり。かの説、行、証、忘、錯、不錯等も、しかしながら時節の因縁なり。時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり、拂子拄杖等をもて相観するなり。さらに有漏智、無漏智、本覚、始覚、無覚、正覚等の智をもちゐるには観ぜられざるなり。
 当観といふは、能観所観にかかはれず、正観邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり。当観なるがゆゑに不自観なり、不他観なり、時節因縁聻なり、超越因縁なり。仏性聻なり、脱体仏性なり。仏仏聻なり、性性聻なり。

第二段落も釈迦の言葉によりながら仏性について説く。ただし、その言葉を、「聯灯会要」からとっている。百丈懐海が潙山霊祐に与えた言葉「仏性の義を知らんと欲はば、まさに時節の因縁を観ずべし。時節若し至れば、其理自ずから彰らかなり」が典拠である。「其理自ずから彰らかなり」が「仏性現前す」に変えられている。仏性が現れるのは時節の因縁によると説いている。

 時節若至の道を、古今のやから往往におもはく、仏性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然に仏性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、参師問法するにも、辨道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見取して、いたづらに紅塵にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。いはゆる欲知仏性義は、たとへば当知仏性義といふなり。当観時節因縁といふは、当知時節因縁といふなり。いはゆる仏性をしらんとおもはば、しるべし、時節因縁これなり。時節若至といふは、すでに時節いたれり、なにの疑著すべきところかあらんとなり。疑著時節さもあらばあれ、還我仏性来なり。しるべし、時節若至は、十二時中不空過なり。若至は、既至といはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至なり。しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰なり、おほよそ時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。

時節の因縁が知られるのは、時節の到来を待ってのことではない。時節は常に到来しているのであり、それを知るのが肝心なのである。そのように仏性というのは、すべての人にすでに備わっているのであるから、あとはそれに感づいて、それを現成させることが肝心なのだというわけである。






コメントする

アーカイブ