ドストエフスキー「死の家の記録」を読む

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「死の家の記録」がドストエフスキー自身のシベリアでの投獄生活から生まれたことは、文学史上の定説になっている。ドストエフスキーは、いわゆるペトラシェフスキー事件に連座して死刑の判決を受けた後、死刑執行直前に判決が取り消され、四年間のシベリア流刑を言い渡された。死刑にまつわる逸話自体が非常にショッキングなことなのだが、流刑生活のほうもかれにとってはショッキングだった。その流刑をきっかけにして、かれは「自由主義」思想を捨てて「健全な」保守思想を抱くようになったほどだ。それほどこの流刑は、かれにとっては人生の転機となった事態であった。それをドストエフスキーは無駄にやりすごすことはできなかった。その体験を自身の文学の糧にすることで、文学者として一段の成熟をめざそうとした。この「死の家の記録」と題した小説は、そうしたドストエフスキーの意図が込められたものであって、かれはこの小説によって、作家として一段と大きな成長を遂げたといえるのである。

ドストエフスキーがシベリアでの流刑生活を送ったのは、1850年から1854年までの四年間、30歳から34歳までの期間である。出所後四年間軍隊勤務をし、1858年に首都ペテルブルグに帰還。その二年後の1560年「死の家の記録」を刊行した。この小説を書くについては、ドストエフスキーはかなり周到な準備をしたようである。表向きは自分自身の体験という形ではなく、架空の人物の体験という形をとっており、その身分とか刑の理由とかはまったく架空のものとして設定している。ドストエフスキー自身は政治犯であるが、この小説の主人公ゴリャンチコフは粗暴な殺人犯である。かれは結婚したばかりの妻を、たいした理由もなく殺したということになっている。もっともそのことは、この小説全体の語り手が、別に聞きつけた噂として語られ、主人公自身はそれについて何も言ってはいない。だから真実のところどうなのかは、明らかにはされていないのである。だいいちこの小説は、監獄での毎日を描くことで成立しており、なぜ罰せられたのかとか、そういう周辺的な事情にはいっさい関心を払っていない。というかこの小説は、ほとんどすべてといってよい部分が、ゴリャンチコフの手記の内容をそのまま掲載したものであって、小説の語り手は、その手
記をどのような経緯で手に入れたかについて、簡単な言及をしているにすぎない。だからこれは小説といっても、特定の人物の手記というにすぎないのだ。語り手が最低限必要な情報を、小説の導入部として加えた文章は、わずか数ページである。

そんなわけだから、手記についての語り手の言及は、ごく表面的なことがらにとどまる。ゴリャンチコフの人間像についても、噂で聞いたことをそのまま鵜呑みにしているような浅はかなものである。ただ一つ気になるのは、語り手が、「これは狂った頭で書かれたものだとほぼ確信した」と言っていることである。だが、読んで分かる通り、この手記は決して狂った頭で書かれたとは思えない。かえって明晰な頭脳を感じさせるような書き方である。ドストエフスキーは、前作の「二重人格者」では文字通り狂人を主人公にしていたわけだし、処女作「貧しき人びと」のジェーヴシキンにも狂気を感じさせるものがあったが、この手記の作者ゴリャンチコフには、そうした狂気は全く感じられない。狂気どころか、きわめて理性的な冷静さを感じるばかりである。ドストエフスキー自身は、服役中に癲癇の発作に見舞われ、かなりその症状に苦しんだと言われているのだが、この小説には、そうしたドストエフスキーの個人的な病状は全く反映されていないと言ってよい。とはいえ、この小説がドストエフスキーの監獄での体験をもとにしていることは明らかである。ドストエフスキーは、監獄に入ることではじめて、ロシアの一般民衆に接し、民衆の考え方とか、その生きざまを詳細に知ることができた。ドストエフスキーも含めて、この小説が現れる以前には、ロシアの文学が一般民衆を詳細に描くことはなかった。プーシキン以来のロシア文学は、貴族とか軍人、役人といった上層階級の人物ばかりを描いており、民衆にはほとんど触れていない、というかまともな考慮を払っていない。ところがこの小説は、監獄が舞台ということもあって、一般民衆出身の囚人が多数出てくるわけだから、いやおうでも、一般民衆の生き方に注意を向けることになるのである。

こうしてみると、この小説でドストエフスキーが狙ったのは、よく言われるような、自身が体験した異常な事態を感情をこめて描くというようなことではなく、監獄を舞台にした一般民衆の生きざまを描いてみたいということだったのではないか。ロシア人のロシア人らしいところは、もしそんなものがあったとして、貴族とか役人ではなく、一般民衆が体現しているに違いない。そういう思いがドストエフスキーを駆り立て、ロシアの民衆の生きざまを生き生きと描いてみたい、という野心を起こさせたのではないか。その野心がかなりな程度実現できれば、これはロシア文学史上最初に、一般民衆が体現している、ロシア人のロシア人らしさを深く掘り下げて描いた作品だといえることになる。

手記を一読してわかることだが、主人公はいたるところで、ロシア人のロシア人らしさにこだわっている。彼自身は貴族であり、一般民衆とはかなり違った視点に立っているが、一般民衆は、いわばロシア精神のようなものをまるごと体現している。そのロシア精神とは、大部分が非合理的な感情に支配されたものだが、しかし、自分の名誉にこだわったり、あるいは必要以上に意地をはったりといった、ポジティヴな面も併せ持っている。ドストエフスキーは、そういた一般民衆の生きざまを、ネガティヴな面とポジティヴな面とを併せ持つ複合的なものとして、その全体像をもれなく表現しようとした形跡が指摘できるように思われる。

もしそうだとしたら、この小説は、ドストエフスキー自身が体験した「死の家の記録」というよりは、「死の家」つまり監獄を舞台に展開されたロシアの一般民衆の生きざまを全体的に描き出したものだと言えるであろう。そのロシア民衆の生き方を、記録の作者は軽蔑していない。かれは貴族として、ほかの囚人仲間からは疎外されていると感じているが、そのことで囚人たち、つまりロシアの民衆を憎んだり軽蔑したりはしない。かえって自分の偏屈さを反省するくらいである。

ドストエフスキー自身が体験した監獄生活は、四年間だったが、この手記の主人公は十年間監獄で暮らしたということになっている。しかし手記がカバーしているのは最初の一年間のことがほとんどで、最後の一年間が申し訳程度に触れられているに過ぎない。他の八年間は、最初の一年間をそのまま引き延ばしてコピーしたようなもので、とりわけ注目に価するようなことはなかったというのがその理由である。

なお、主人公は出獄後、監獄のある街に引き続き住み続け、そこで人々の噂の種にされながら、ひっそりと死んだということになっている。当時のロシアでは、流刑囚は、刑期の終わった後、完全にお役御免になるわけではなく、監獄の外部で流刑者として暮し続けなければならなかったようである。ドストエフスキー自身も、刑期の終わった後、刑期と同じ期間軍隊生活を義務付けられたようである。






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