検察の傲慢な俺さま体質:袴田事件再審問題

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袴田事件をめぐる再審案件について、検察が強固な抵抗姿勢を見せている。袴田さんの有罪を改めて主張するというのだ。おどろくべき傲慢さといわねばならない。だいたい、「先進国」の司法制度の主流は、訴追する側の検察の都合よりも、被疑者の利益を優先するシステムをとっている。第一審で無罪となれば、控訴しないというのが検察のエチケットだというのがほぼ共通認識になっている。ところが日本の検察は、公訴権をやたらに乱用するばかりか、再審においても頑固な抵抗を見せる。これでは、日本の検察は、法の正義の実現より、自分たちのメンツを優先しているといわねばなるまい。

今回の再審決定については、検察による証拠に疑問があると裁判所が判断したことが直接のきっかけだ。検察側が証拠を捏造した可能性が高いというのがその理由であったが、ふつうならそれを受け入れるのが筋であろう。ところが検察は、その証拠能力の問題を蒸し返して、あれはやはり被告の袴田さんに責任があるといいだした。ところが袴田さんがそんな行為をしたという検察の主張は、裁判所によって退けられたわけだから、それを蒸し返すのは、裁判そのものをぐちゃぐちゃにして、自分たちの責任逃れをしようと考えているのではないか、と疑われても仕方があるまい。

いまどき、袴田さんの有罪を立証できるだけの能力を検察が持っているのであれば、大昔の裁判でそれを行使できていたはずだ。ところが、大昔の裁判で検察の唯一のよりどころとしたのは、袴田さんによる自白である。検察の証拠能力を証明できたのは、その自白だったのである。今回は、袴田さんの自白以外に、客観的な証拠をもっていると検察は考えているのかもしれない。もしそうなら、なぜ大昔の裁判で、そうした客観的な証拠固めができなかったのか。

どう考えても、今回の再審に向けての検察の方針は、民を見下し己を万能視する姿勢を反映しているものと言わざるをえない。検察がそのように思いあがっている姿勢は「俺さまはいつでも正しい」と信じている、童話の中の王様のように見える。じつに見苦しい眺めである。





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