ヴァンサン・デコンブ「知の最前線」:フランス現代思想を俯瞰

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ヴァンサン・デコンブが「知の最前線(原題は Le même et l'autre. - Quarante-cinq ans de philosophie française」を刊行したのは1979年のことだが、フランス現代思想を概括したこの著作は、いまでも色あせていない。これ一冊で、フランス現代思想の流れを理解できるようになっている。まるでこの本が、フランス現代思想の全体像をもれなく伝えているかのようである。ということは、フランスの現代思想の発展が、その時点で事実上とまってしまったということか。この著作は、哲学の終焉よりもっとラディカルな主張である「人間の終焉」を語ることで終わっている。人間が終焉したというのだから、哲学の発展が終わっても何ら不思議ではないわけだ。

タイトル(原題)にある通り、デコンブはフランスの現代思想を、1930年からの五十年間の動きとして見ている。まずサルトルとメルロ=ポンティによってフランス現代思想がスタートし、構造主義を経て彼の同時代の思想家であるデリダとドゥルーズによって頂点に達したという見方をしている。頂点に達したというのは、哲学がそこで終焉したというニュアンスである。なお、サルトル以前に、20世紀に活躍したフランスの思想家として、ベルグソンのような偉大な思想家もいるわけだが、デコンブはベルグソンを古いタイプの思想家、せいぜい新カント派の亜流のようなものと位置づけているようだ。フランス現代思想はあくまでも、サルトルから始まるのである。

デコンブによれば、フランスの現代思想はサルトルとメルロ=ポンティから始まり、レヴィ=ストロースの構造主義によるサルトル批判を経て、その批判を踏まえたうえでの、デリダとドゥルーズによる哲学の消滅に至る流れだということになる。それを別の言葉で言えば、形而上学を脱構築する流れ、同一性(主体)を否定して差異へむかう運動というふうに捉えることができる。サルトルとメルロ=ポンティの哲学は、主体つまり同一性についての哲学であり、そのようなものとして形而上学であり、デリダとドゥルーズは脱構築と差異の哲学者であった、というのである。

このようにデコンブの問題意識は、同一性から差異への流れをフランス哲学の趨勢と考えることから、この流れにうまく乗らない思想家は排除される。フランス現代思想に大きな足跡を残したレヴィナスとフーコーについては、ほとんど語るところがないのである。その一方で、リオタールやクロソウスキーといった、どちからといえばマイナーな思想家が、この流れに乗っているという理由で取り上げられている。

サルトルをフランス現代思想の先駆者として位置づけるのは、サルトルこそがフランス哲学を世界の舞台に復帰させた功労者と考えたからだろう。サルトルが現れるまでは、ドイツが哲学の中心であり、フランスは地方的な位置づけにすぎなかった。そこにサルトルが現れ、フランス哲学を再び世界の中心にもちあげたのである。そのサルトルの哲学は、フッサールとかハイデガーといったドイツ系の思想家の尻馬に乗ったものであって、たいしたユニークさをもったものではなかったが、サルトルはまた作家でもあって、言葉で人をくらますのがうまかったので、自分の思想に、さも斬新で新鮮な見せかけを施すのが得意だったこともあり、たちまち時代の寵児になれたということがある。

それはともあれデコンブは、サルトルとメルロ=ポンティをともに主体の哲学として定義したうえで、主体とは自己の同一性の上に成り立っていることを理由に、二人とも同一性にこだわったという意味で、古典的な意味での形而上学を一歩も出るものではなかったと決めつけている。プラトン以来の古典的な形而上学は「同一性」についての言説からなっているのである。

デリダとドゥルーズは、同一性を否定して差異を前景に押し出した。同一性を否定すれば、デカルト以来の西洋哲学の伝統である「自我」の意義が怪しくなる。自我は意識の同一性そのものだからである。同一性の否定は、哲学にとって二つの衝撃を与えた。一つは脱構築であり、もう一つは差異の前景化である。

同一性に基礎をおいた従来の形而上学は、ある理念を普遍妥当なものとし、それによって世界を演繹的に説明しようとする傾向をもっていた。ところが同一性が否定されると、従来普遍妥当なものとみなされていた原理はことごとく基礎を失う。だからそれらの従来型の原理はことどとく批判されねばならない。その従来型原理の批判を、デリダが脱構築という概念で表現した。この概念はニーチェ起源のものであった、そのニーチェの破壊的なニヒリズムをデリダは体現していたのである。

一方、同一性の否定は、差異の前景化となって現れるが、その傾向を代表するのがドゥルーズである。とくに初期の文筆活動において、同一性と差異とのもつれあいについて、ドゥルーズは様々な視点から考察したのであった。そのドゥルーズもまた、ニーチェの強い影響を受けている。かれはニーチェ研究から出発して、同一性の否定と差異の現前化にたどりついたのである。

レヴィ=ストロースは、サルトル、メルロ=ポンティとデリダ、ドゥルーズとの間に割って入り、前者を批判し、後者を導入するのに、一役果たしたというのがデコンブの見立てである。レヴィ=ストロースの構造主義をデコンブはコードの体系とみている。コードの体系はきわめて機能的な概念であって、普遍的な実在とか、歴史の直線的な発展とかいったものを信じない。そうした相対主義的な態度が、デリダ、ドゥルーズが登場するについての露払い的な役割を果たしたわけである。

こんなわけで、デコンブのフランス現代思想論は、きわめて首尾一貫した構想にもとづいて、整然と展開されているという印象を受ける。





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