ロシアの監獄事情と囚人気質:ドストエフスキー「死の家の記録」

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ドストエフスキーがオムスクの監獄に収監されたのは政治囚としてだ。かれはその体験をもとに「死の家の記録」を書いたわけだが、自身の体験をそのまま書いたわけではなく、かなりな改変を加えている。おそらく検閲をはばかって、架空の話という外見を施す必要を感じたからだろう。舞台となった監獄はオムスクではなく、イルトゥイシ川上流の、カザフとの国境近くの要塞ということにしているし、小説の主人公である「死の家の記録」作者は、政治犯ではなく殺人犯である。監獄全体がそうした凶悪犯を収監しているように描かれているのである。なおこの小説の中では、カザフをキルギスと呼んでいる。帝政ロシア時代には、カザフ以下現在中央アジア五か国といわれる地域をキルギスと呼んでいたのである。

監獄の規模はたいして大きくはない。収監されている囚人の数は250人ほどという設定である。囚人の入れ替わりはあるが、つねにこの数に保たれている。囚人の大部分は、殺人など凶悪犯罪を犯した連中だ。この連中は、平気で人を殺すのだが、それはロシアの民衆には珍しい傾向ではない。「わが国の民衆の間ではまったくばかばかしい理由で殺人が行われることがある」(工藤精一郎訳)というのである。中には、身代わりになって送られてくる馬鹿者もいる。わずかの金で自分の身を売ってしまうような人間がいるのだ。そういう馬鹿者は、囚人仲間から徹底的に軽蔑される。人を殺して監獄にぶち込まれるのは仕方がないとしても、他人の罪を身代わりにしょって監獄にぶちこまれるのは、どうにも救いようなない馬鹿者とみなされるのだ。

というのも、囚人たちは自由のすばらしさを、かれらなりにわかっているからだ。かれらが監獄を耐えがたいと思うのは、労働の辛さとか絶え間のない苦役といったものよりも、それが強制された義務であることによる。自分の意志に従って生きられないということこそ、かれらの耐えがたいことなのである。囚人たちの最大の関心事は金であり、一部の変わった者を除けば、みなだれも金に異常な執着を見せる。それはなぜかというに、監獄の中では、金の使い道を決めることくらいにしか、自分の自由を感じることがないからである。だから、いざ金を使う段になると、かれらは非常に気前がよくなる。気前のよさが、かれの自由のあかしと感じられるのである。「金をつかうことによって、彼はもう自分の意志で行動しているのである」。

ともあれ監獄に凶悪犯を閉じ込めておくのは、ロシアにあっては、かれらの暴力から社会を守るためである。「監獄や強制労働の制度が犯罪者を矯正するものでないことは、言うまでもない。それらの制度は犯罪者を罰して、今後凶悪な犯人にその安寧秩序をおびやかされることのないように、社会を保護するだけである」。これはいまの日本にもあてはまることである。いや、世界中どこの国でも当てはまることだ。監獄は犯罪者から善良な国民を守るための砦なのである。

この作品に出てくる犯罪者の大部分は百姓である。記録者のゴリャンチコフのような貴族は数名にすぎない。その貴族を百姓たちは毛嫌いする。その毛嫌いぶりは、要するに自分とは同じ仲間とは思えないことからくる。百姓たちはつねに貴族たちに冷たい視線を向けている。そのため、ゴリャンチコフなどは息苦しさを感じるほどである。とはいえ、百姓たちが互いに信頼しあっているというわけではない。「囚人たちは半数が百姓出のくせに、たいてい百姓を幾分見下している」。百姓同士で尊敬を集めるような人間は、どこかなみはずれたところを持っている。それはむち打ちの刑を平然と耐えたり、上司と称される獄吏やその手下どもにへりくだらないような人間である。要するに自分に対して誇りを持てるような人間が尊敬される。逆にいえば、囚人たちはみな、自分を人間として見てもらいたいという欲求を持っている。「身分がどうであろうと、どんなに虐げられた人間であろうと、だれでも、よしんば本能的にせよ、無意識にせよ、やはり自分の人格を尊重してもらいたいという気持ちがあるのである。囚人は言われなくても自分が囚人で、世間から見捨てられた人間であることは知っているし、上官に対する自分の立場も知っている。しかしどんな刻印、どんな足枷をもってしても、自分が人間であることを囚人に忘れさせることはできないのである」。

囚人の中には、命知らずのタイプの人間がいて、なにかがきっかけで思いもよらぬような行動を起こすことがある。それもやはり、自尊の感情がかれを駆り立てるからだ。「こんな人間が一生の間に、時として、急激な民衆運動や革命などが起ったりすると、とつぜんくっきりと大きく浮かび上がって、一挙に自分の全活動力を発揮することがある。彼らは言葉の人でないから、運動の首謀者や指導者にはなれないが、その主要な実行者となって運動の先頭にたつのである」。

囚人には、百姓や貴族のほか、外国人も含まれている。ポーランド人やタタール人、チェルケス人などである。ジプシーやユダヤ人もいる。ユダヤ人は一人だけだったが、この男は監獄の町に住むユダヤ人のネットワークにつながっていて、なにかと便宜を受けていた。この男は声を張り上げて泣くのが癖であった。そのことについて、このユダヤ人は、「声を張り上げて泣き悲しむのはイェルサレムを失った悲しみを意味し、この悲しさをあらわすときはできるだけ激しく泣き、胸をたたくように聖典に定められていると、わたしに説明した」のであった。このイェルサレムを失った悲しみが、十九世紀の半ば以降、ロシアのユダヤ人社会にシオニズムを流行らせた原因である。

ポーランド人は、けっしてロシア人と融和せず、自分たちだけで別の世界を作っていた。その点は、ウクライナ人も同然だった。小ロシア人とも呼ばれるように、ウクライナ人はロシア人とは近い人種であるにかかわらず、なぜかロシア人となじもうとはせず、冷笑的な視線をロシア人に向けているのである。ロシア人を冷笑するウクライナ人というのは、まさにあのゴーゴリも同様である。ゴーゴリはロシア人を徹底的に貶め、この世でもっとも野蛮な生き物として描いていた。

ざっとこんな風に、ロシアの監獄の実態とそこに収監されている囚人を描くことを通じて、ドストエフスキーは、自分の監獄体験をそのままに描くのではなく、そこにロシア人というものへの深い観察と理解とを示したかったのではないか。なにしろ、先述したように、プーシキン以来のロシア文学は、ロシアの上層階級に属する人間をもっぱら描き、一般民衆に注意を向けることがなかった。ドストエフスキーが初めて、一般民衆の生き方や考え方を小説の主要なテーマとして提示したのである。そういう意味でこの小説は、ロシアの近代文学に大きな転換をもたらした記念すべき作品ということができるのである。






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