落日贅言の辯

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本日令和五年(西暦2023年)七月十五日は、小生満七十五歳の誕生日である。日本の法体系では、七十五歳以上の老人を「後期高齢者」と呼ぶそうだ。どんな理由でそう呼ぶかは知らぬが、小生はこんな言葉で呼ばれたくない。そんな言葉を許容していては、いづれ末期高齢者などと呼ばれることも許容せねばならなくなり、またいよいよとなったら「死に損ない」と呼ばれるのも甘受せねばなるまい。われわれいわゆる団塊の世代は、非常に長生きし、百歳以上生きる人が53万にのぼるという推計もあるそうだ。長生きするのは悪いことではないが、死に損ないなどと呼ばれて厄介者扱いされるのは不本意である。

後期高齢者になった記念というわけではないが、これを一つの機縁にして、なにか気の利いた文章でもしたためて、知の活性化をはかろうかという気分になった。人間考えるのをやめると急速に痴呆化するという。痴呆の似合った人間がいないわけではないが、小生の場合には似合いそうもない。だから考えるのを続けようと思う。考えるだけではなく、考えたことを文章化することが肝要だ。文章を書くというのは、非常に知の働きを活性化するので、ボケ防止になるばかりか、新たな知の開拓にもつながる。いまどき知の開拓とは片腹痛いというなかれ。人間生きているかぎりは、向上心を失わない覚悟が必要だ。

小生がこんな気になったのには、先人の影響がある。最近読み返している加藤周一に、「夕陽妄語」と題する一連のエッセー類がある。加藤はこのエッセー類を、ある新聞紙上に連載したのであったが、それを開始したときには満六十七歳であった。いまの小生より八歳も若い時のことだ。加藤はその年齢を自身の夕暮時と思念していたらしく、夕陽妄語というタイトルにはそうした気持ちが込められているようである。この言葉を加藤自身は、徳川期の詩人菅茶山の「紅葉夕陽村舎詩」からとったといい、また、プルーストの小説の女主人公の手紙からとったとも言っている。両者とも人生の夕暮を強く意識させるので、己の晩年を形容する言葉としてふさわしいと考えたのであろう。そのひそみにならったわけではないが、小生は「落日贅言」と題したいと思う。落日は夕陽よりもさらに時間の進んだことを想起させるし、贅言は妄語よりは知的な響きを感じさせると思う。

加藤の「夕陽妄語」には、時事にことよせて己の思いを述べた文章が多い。第一回目からして、当時の日本の軍事化傾向に警鐘をならしたものだった。加藤のこうした姿勢は、彼の生き方を反映しているものだろう。加藤は若いころから、世界との緊密なかかわりのなかで日本を考え、日本の進むべき道について彼なりの考えを述べていた。加藤の好きなサルトルのアンガージュマンを多分に意識してのことだったのではないか。小生は加藤やサルトルほどアンガージュマンへのこだわりはなく、自主独立をモットーに生きてきた。たまに時事問題に容喙する場合にも、己自身の自主独立になんらかのかかわりがある範囲でのことである。小生には、みだらに時事を論じることは君子のなすところではないとの思いがあるのだ。

時事にわたりながら、しかも小生自身の生き方に深くかかわるような事柄が、今後この「落日贅言」の主なテーマになるだろうと予感する。そんなテーマのうち、第一回目にふさわしいといえるのは日本社会の高齢化であろう。小生自身後期高齢者となって、日本の高齢化を先導する立場になったわけだし、われわれ団塊の世代を中心に進む日本全体の高齢化と、それと裏腹な関係にある少子化は、日本社会の未来に深刻な影をなげかけている。高齢化のピークを迎えるのは、団塊の世代が消滅する直前のことと思われ、その世代が消え去ったのちには、人口そのものが大幅に減少すると見込まれている。いろいろな推測がなされているが、団塊の世代が消え去ったあとの時代、つまり21世紀の半ばごろには、日本の人口は八千五百万人ほどまで減少するだろうと推測されている。国力の大部分は人口によって規定されるというから、人口の減少は国力の低下を意味する。そえゆえ、高齢化とか少子化、その結果としての人口の減少は、日本社会を土台からおびやかす問題といってよい。適切に対応しなければ、国の亡びるのを座視するのみだ、といった言説がセンセーショナルに説かれているが、理由のないことではない。

日本社会の人口減少への対応策としては、二つの相反する立場が競い合っているのが現状ではないか。一方は、人口の減少を海外からの移民によって埋めようというもので、これは資本の論理がうながすものである。その対極には、人口の減少を前提として、それに見あった社会システムの構築を説くもので、これはいわゆるナショナリストに親和的な考えだ。ナショナリストの抱いているような感情は意外に根強く、移民を受け入れて民族性を犠牲にするよりは、経済の縮小に甘んじてでも民族のアイデンティティを重視すべきだとする主張には、賛同するものが多い。だいたい日本は、明治維新の際にはせいぜい三千万人台で出発したのであり、しかも封建時代の大部分を通じて、その程度の人口で推移してきた。人口が一億を超えるほどの爆発的な増加を見たのは、大戦後の一時期の過渡的な現象であって、日本の歴史全体のなかでは例外的なことにすぎない。日本が国としてスマートなパフォーマンスをするには、八千万人もいれば十分だという意見もある。

小生はナショナリストとはいえないが、人口問題については、ナショナリストと似たような考えをもっている。日本社会は未来に向かっても、現在日本人と呼ばれている人間によって構成されるべきであり、人口が減少すれば、その減少した規模にあわせて社会システムを再構築していくべきだと考えている。そうした考えについては、様々な批判があろう。人手不足を解消するためには海外から移民を受け入れねばならぬとか、グローバリゼーションの趨勢の中で、鎖国的な政策にこだわるのは時代錯誤だといった意見があると思う。だがそうした意見は、一見科学的なように見えても、じっさいは資本の論理に促されているのは明白である。資本の論理からすれば、国境などは問題にならないし、ましては、民族のアイデンティティといった考えは野蛮な時代の残渣のようなものに過ぎない。未来の世界は、地球共同体として、すべての民族が国境を越えて一体化していく趨勢にある。その趨勢を誰も止めることはできない。そう考えるのは、資本の論理に流されているからである。

民族性の概念は古いというだけではなく、危険だという考えもあるが、それは一面的な見方だと思う。言語を含めて人間の文化というものは、民族を単位として長い発展過程をたどってきた。いくら資本の論理がグローバリゼーションをすすめたとしても、それが人間社会の文化にとってかわることはできない。人間という生き物は、文化の産物であり、その文化が民族性の上になりたっているのであれば、民族性を破壊することは文化の破壊に通じ、文化の破壊は人間性の破壊に通じる、ということになりかねない。

第一回目ということもあり、大げさな議論になってしまったが、これも目下の日本が迫られている問題の巨大さが促したものである。その問題に対して小生は、己の体験を踏まえたごく個人的な印象しか語れない。その個人的な印象のなかでも、もっとも切実に思えるのは、己が死に向かって限りなく近いところまで踏み出した、ということである。だからといって、ことさらに死を語っても仕方がない。加藤にしても、論語を引用しながら、「我生を知らず、いづくんぞ死を知らんや」と言っていたとおりである。





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